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榎本武楊(えのもとたけあき)は1836年8月に東京で生まれました。なお父は江戸時代後半に測量家として伊能忠敬の弟子をしていた榎本左太夫です。
榎本武楊は15歳の頃に神田にあった昌平坂学問所に進学。それから3年後には横浜開港や修好通商条約に貢献した幕臣・堀利煕(としひろ)に従う形で北海道やサハリンに訪問し、1856年には長崎海軍伝習所に入学しました。ここでは化学や機関学の基礎を学び、続いてジョン万次郎に英語を学んでいきます。この間に海軍の士官養成学校で教授を務めてもいましたが、やがて1862年になると、幕府留学生と言う形でオランダに渡欧する機会を得ました。現地で最新の科学や航海術などあらゆる事を学び、30代になった頃にはオランダから幕府主体の軍艦で日本に帰国。その後戊辰戦争の最中には海上での艦隊を用いた戦いに参加し、当時の功績から翌年の明治元年・1868年には海軍副総裁に任命されています。
やがて北海道について支えるため奔走しますが、榎本武楊のいた旧幕府軍が敗北すると1869年に東京にて投獄され、1872年には出獄となりました。しかしながら福沢諭吉らをはじめとした当時の有力者からの援助や呼びかけもあり、1年経たないうちに牢から出ると、北海道の調査や、他国との外交、軍人などとして幅広く活動しています。特に晩年は逓信大臣や外務大臣などいくつかの大臣職を歴任しました。
そして1908年10月、73歳で息を引き取っています。
榎本武楊は前述の通り北海道を支えるため奔走しているのが特徴です。
江戸城を明け渡した明治維新の起きた1868年には、旧幕府の艦隊を指揮しながら北海道へと渡り、北海道を開拓して一つの新しい国を作るように求めましたが拒否されました。(箱館(はこだて)戦争と呼ばれています)
それでもなお対抗したのですが降伏となり、1869年の投獄へと繋がります。しかし黒田清隆に守られる形で、出獄後は北海道の開発に尽くしました。
新政府に対抗していた頃の榎本武楊は決して独り善がりではなく、土方歳三と協力したり、また選挙で総裁ともなっています。
出獄後の1874年にはロシア駐在公使として勤め、また翌年には樺太をロシア国内のものとする代わりに、千島列島を日本のものとする樺太・千島交換条約を果たしました。
代表的資料・作品
榎本武楊は外交に携わっていたこともあり、外国語に長け『朝鮮事情』、『千島誌』などの著書の翻訳をこなしています。また自身の心境を反映したような漢詩も多く残していました。
そのほか体験を日記や書としても記しており、『シベリヤ日記』『榎本武揚未公開書簡集』(いずれも憲政資料室が所蔵)。
■黒田清隆
1840年の鹿児島生まれの政治家です。第2代目の内閣総理大臣として勤めていますが、北海道開拓長官や大日本帝国憲法に関わっているなどしています。
戊辰戦争では参謀として関わり、また榎本武楊にはロシアの対策として任務を与えました。
■箱館戦争
1868年に起こった倒幕派と幕府派による戊辰戦争の最後の戦いとされてます。
窮地に立たされた、榎本武楊含む旧幕府が函館の五稜郭へと逃げ戦いを来り広げ、その中で加勢した土方歳三が銃弾により倒れました。
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