木島桜谷(このしまおうこく)は1877年3月に東京で生まれました。なお本名は文治郎と言います。地元の小学校の卒業後、京都市立商業学校へ進学しましたが、算術などをはじめとした授業の内容に興味がなく中退。その後19歳になった頃に『余物百種の図』が知られている日本画家・今尾景年の門に入り、“桜谷”の名前を授けられました。以降は絵と並行して儒学や漢学も学びながら腕を磨いていき、弟子入りした翌年には、展覧会に出品した作品が褒詞を受け、その次の年には三等褒状を受けるなど若くして才能を発揮。その後、木島桜谷が22歳となる1899年は、全国絵画共進会の場で出品した『瓜生兄弟』が宮内省の購入作品となり、画家としてその名を広げることとなりました。
やがて1907年、文部省美術展覧会において発表した『田舎の秋』が2等1席を獲得。当時同展では1等が空席であったため、木島桜谷は事実上の1等を獲得したこととなり、それからも数年の間、文展の場において受賞を重ね続けていきます。
こうした功績から、1912年には京都市立美術工芸学校の嘱託教員となり、その次の年の文部省美術展覧会では審査員を。また1915年には京都市立絵画専門学校の教授ともなりました。
晩年は世間から離れ、静かに暮らしていましたが、1938年11月、62歳で息を引き取っています。
木島桜谷の作品は実際の物や風景に忠実でありながら、自身の感情を作品に込め、明快で穏やかな雰囲気が感じられる所に特徴があります。
円山四条派がベースにあり、画題には歴史画や、重厚な筆さばきの動物画。人物画や風景画など、幅広い分野の作品を描いています。
前述の様に幅広い題材で描いていき、明治時代後期から大正までの間、文部省美術展覧会や京都画壇。ひいては日本全土でその名が知られていきました。
しかしこのように華々しく活躍しながらも、1933年に帝国美術院展覧会の場で「峡中の秋」を出してからは画壇から距離を起き、中国人が記した漢文の漢籍について楽しんでいます。
またつい最近まで、展示がしっかりとされる機会はないのもあって、それほど名が近年においては知られていなかったと言う指摘もあったりします。
そこから展示の機会も増えた事や木島桜谷の住居内に出来た、氏の作品や漢籍や儒学。典籍などを所蔵した櫻谷文庫が、普段は非公開ながら定期的に開かれるなどで知名度が上がっている傾向もあるのです。
なお画壇で名を馳せてきた当時、文筆家の夏目漱石が作品を激しく批判した記述もあります。
代表作
1907年に発表の『しぐれ』(東京国立近代美術館が所蔵)
『寒月』、『若葉の山』などがあります。
■今尾景年(いまおけいねん)
1845年生まれの日本画家です。
鈴木百年の弟子で、師の南画的作風の影響があり花鳥画の展開も見られます。
また円山四条派も受け継いでおり、海外の万博の場でも活躍。1904年に帝室技芸員となりました。
■京都市立芸術大学
1880年に日本で初めての公立の絵画専門学校として誕生しました。
同校出身の画家としては1992年に京都府文化賞功労賞を獲得した山本知克。京都造形芸術大学大学院教授を務めた石本正などがいます。
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