西郷南洲(隆盛)は1827年12月に鹿児島で生まれました。薩摩藩の下級士族として生まれ、役人としての務めながら藩主である島津斉彬に熱心に意見書を送る事で注目され、側近の地位にまでなっていきます。御庭方として務めた後には藩政の計画に参加するなど、島津斉彬の下で活躍を続けるものの、島津斉彬が亡くなった事も大きく起因し立場が急落。直後、30代になったばかりの頃に自殺を図るものの未遂となり、一時は鹿児島県の奄美大島にて隠れ住みました。約4年後には幼馴染でもあった大久保利通の助力によって鹿児島へ戻りますが、1862年に薩摩藩士となった島津久光と意見が食い違った事がきっかけで、沖永良部島へ流刑となっています。
とは言え2年後には復帰し、大久保利通と共に活躍。1866年には薩長同盟を結んだり翌年には大政奉還に大きく関わると言ったように、日本の全土に貢献し新政府の一員となりました。また1873年には西郷隆盛を頼り、政府での勤めを辞めた人達が主に集まった私学校が設立。様々な功績を残した西郷隆盛でしたが、1877年に西南戦争を起こし破れたことで、自決することとなっています。
西郷隆盛自身は政治家や軍人として勤めたもの、私学校の設立と言ったように次の世代に教えを広めると言う活動も行っていきました。ちなみに沖永良部島へ流刑となり劣悪な環境で「西郷南洲翁謫居の地」と現代は呼ばれる牢屋に入れられるものの、子供達が親しんで西郷隆盛の教育を受けていたと言う逸話も残されています。
なお西郷隆盛が発した言葉がまとめられている『南洲翁遺訓』がありますが、敵対関係であった元庄内藩の人達によって1890年にまとめられたと言う話があります。
西南戦争を起こしたと言う事で言わば戦犯と言う捉え方もあるかもしれませんが、西郷隆盛は死後にその名誉が回復し、発した言葉も見つめられる形となりました。失われた陸軍大将の位も取り戻され、東京の上野公園にて像も建造。なお西南戦争は暴徒化した私学校の生徒達の責任を負う形で先導に立ったと言われていますし、江戸城の無血開城も有名です。
また“敬天愛人”など、西郷隆盛が発した言葉は現代でも重要な意味を持つ言葉として認識されています。
代表的な言葉
“敬天愛人”は天に敬意を示すことで、人を愛すると言う意味があります。西郷隆盛の名言の中でも一番有名であり『南洲翁遺訓』にも書かれています。
また“命もいらず、名もいらず”も有名でこちらもまた『南洲翁遺訓』内にあります。明治維新後、自身のお金や名誉に拘る人達を見て思うところがあった言葉と言われています。
ちなみに、西郷隆盛は自身の号を「南洲」としており、前述した『南洲翁遺訓』の南洲翁とは西郷隆盛の事を意味しています。
■薩長同盟
1866年に薩摩藩と長州藩が組んだ倒幕の為の同盟です。
当時長州藩は窮地に立たされており、反対に薩摩藩は倒幕派が目立っていました。
互いに敵対関係だったのですか、倒幕目的のために西郷南洲(隆盛)は薩摩藩側として参加する事で同盟が結ばれました。
■無血開城
1868年の3月15日に行われるはずだった江戸城への総攻撃を、江戸城を渡すことで血が流れずに済んだ事を指します。その立役者として西郷南洲(隆盛)と勝海舟がいると言われています。