郷倉千靭は1892年3月に富山県射水郡で生まれました。なお本名は郷倉与作と言います。
1910年に工芸学校を出ると同時に東京美術学校へ入り、そこでは日本画家の寺崎広業から学びました。なお同年には雑誌の白樺などで解説されていたポスト印象派に傾倒したり、同郷出身の女性との結婚も果たしています。
その後23歳で東京美術学校日本画科を卒業すると、翌年、アメリカに1年半の留学を経験。この間にはボストン美術館にある日本画についての調査や複写作業に携わりました。なお同年にはインド美術についても関心を向けているのですが、それは1961年のインド旅行に結びついていく事になります。アメリカからの帰国後には、1920年の帝展に出品した作品『雑草の丘』が初入選。また次の年の第8回日展でも、作品『地上の春』が入選となります。以降も受賞歴は続き、1924年に第10回春季試作院展において『銀鳩』が入選。その年は日本美術院同人にも推薦されました。
やがて30代半ばの頃には草樹社を結成。また40代の頃には帝国美術学校に教授として就任するなど、後進の指導にも当たっています。1961年には京正力松太郎読売新聞社の社主から都東本願寺壁画制作依頼が発注され、続いて1969年、大阪四天王寺大講堂壁画も制作させるなど、晩年は壁画作品を多く手がけていきました。
こういった功績が認められ、1971年には勲四等旭日小綬章を受章。そして4年後、83歳で息を引き取っています。
郷倉千靱の作品の特徴は、自然について細かく見つめ、それを清らかに描写している所だと言われています。なおポスト印象派など西洋画についての興味が作品に現れており、写実性の中に西洋画の当時の前衛的な作風を取り込むようになったという作風の変化も、郷倉千靭には見られるといわれています。
このように日本画には分類されるものの、そのカテゴリーに収まらない自由なテイストが郷倉千靭の持ち味です。
郷倉千靭のこう言った自由な作風は、海外に向けて関心を向けている所に起因していると言った指摘がなされています。また発表当時から郷倉千靭の作風が支持されている事は数々の受賞で分かるのですが、アメリカ留学後はカラフルかつ、個性的なタッチで作品を発表するようになり、より人気を集めていきました。
ちなみに草樹社や帝国美術学校などで、後進を育てている事も評価されています。
代表作や他の作品
初期の代表作と言える1920年発表の『雑草の丘』は、一見シンプルな風景の中に郷倉千靭の自然を見つめる視点が強く反映されていると言った指摘があります。
また他の作品には、静岡県立美術館が所蔵の『臥龍梅』。射水市新湊博物館が所蔵の1923年制作『早春』などがあります。
■寺崎広業
1866年生まれの秋田県出身の画家です。狩野派について学び花鳥画や山水画に美人画。戦争画も描いていきました。
東京美術学校の教授を務めるなど後進の指導にも尽力し、人格的にも優れていたと言われています。
■ポスト印象派
外の時間の移り変わりにより一定にはならない、空気や光を捉えた印象派の特徴を受けながら、それぞれ独自の画風を確立していったヨーロッパの画家達のことを指します。“ポスト印象派”という呼び方以外にも、“後期印象派”などと表現されることもあります。
■草樹社出身の代表的な画家
1910年生まれの長野県出身で、活動終盤時期には対象物をシンプルに描き余白を見せるなど、様々な作風を提示した女流画家の荘司福。1915年生まれの山形県出身で、細かく制作までのプロセスを重ねることで独自の作風の風景画を見せてきた今野忠一などがいます。
なお今野忠一は、郷倉千靭が育てた画家としてもよく取り上げられる人物です。