刑部人(おさかべじん)
刑部人は、1906年5月に
栃木県の下都賀郡家で生まれました。
1918年に父の仕事の事情で東京に移り住み
18歳で東京美術学校西洋画科に進学。
そこではしっかりした写実表現と、
自然光を取り入れた外光派を合わせた作風を展開した
和田英作から指導を受けています。
なお幼少期から絵画に興味を示しており
東京美術学校西洋画科に入る前から
壮大なスケールの作風が特徴の日本画家の川端龍子や
『盲目のエロシェンコ像』や
『神兵、パレンバンに降下す』などか知られている
鶴田吾郎から教わっています。
在学中となる1928年には
第9回帝国美術院展覧会の場で『友人の肖像』が初入選。
翌年の3月に同校を次席で卒業すると
1931年に結婚し、その相手をきっかけに
帝室技芸員の洋画家となった金山平三と知り合います。
1936年には彼からも学び、共に写生旅行もする
と言った事を受けて、
風景画作品ではその影響を大いに受けました。
30代中頃には東京高等工芸学校にて後進の指導を務め
1946年の第1回日本美術展覧会の場で
『冬の軽井沢』が特選。
また2年後の第4回となる同展で
『渓流』が特選となると、
日展の場で名を馳せていきます。
やがて52歳で新世紀美術協会に加わると
そこで積極的に作品を発表し続け
1978年3月、71歳で息を引き取りました。
作風
刑部人はペインティングナイフを用いて
日本の風景や静物を描く独自の作風を展開しています。
生乾きの絵具で塗り重ねていき、
アクションペインティングとの類似性を
指摘されています。
作風の背景としては東京美術学校西洋画科へ在学時
展覧会で初入選したのと同時期に、
欧州地方で盛り上がる様々な絵画運動について
悩んだ時期がありました。
しかしそこから日本の四季折々の風景を
写実性のある作品として描く事を決意し
日本各地を渡った、と言った経緯があります。
また欧州地方に対して羨望は持っていたものの
自らそれを破棄。
理由は自分が一生を賭けても
京都や奈良をきちんと描くことは出来ないし
実際にヨーロッパに行っても
きちんと描き切る時間は作れないので、
行く必然性を見出だせなかった、と言われています。
彼の真面目さが伺えますし、作品は強く
日本の風土感が出ている印象を受けます。
関連用語の細かい解説
・ペインティングナイフ
油彩画を作る際によく使われる
コテの形をした道具です。
盛り上げやかき取り、慣らしを
強い力で行う時に使われます。
刑部人の場合はペインティングナイフの
バネの反動を活かしているのが特徴です。
・新世紀美術協会
1955年に、洋画家で東美校教授や
帝国芸術院会員でもある和田三造や、
女子美術学校教授や日展顧問を務める
川島理一郎を名誉会員にして結成。
他にも元・旺玄会メンバーである
大久保作次郎や吉村芳松などが参加していました。
現在も絵画世界と個性を尊重した場として
存続中です。
日本の風景を描く事を守り続けた刑部人
刑部人は19世紀頃に誕生した、
フランスのバルビゾン村の風景を描いた
バルビゾン派にも憧れを示しつつも、
それも自ら拒否し最期まで
筆を握っていたような形跡を見せています。
生涯を通して日本を描いた洋画家であり
自分に厳しい人であった事も伺えます。
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