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2020.02.06
ブランド品

佐分眞【洋画家】

佐分眞(さぶりまこと)

 

佐分眞は189810月に愛知県名古屋市で生まれました。

 

その後、中学校と並行して

 

夜間には川端画学校で絵を学び、17歳の時に

 

東京美術学校の西洋画科に入学しています。

 

東京美術学校西洋画科では在学中、

 

帝国美術院会員や帝室技芸員でもある

 

藤島武二から教えを受け、1922年に卒業。

 

また同年には白日会員になり、

 

光風会の場において作品を出展しました。

 

やがて29歳の時にはフランスに渡っています。

 

1929年には光風会の会員となり

 

1930年に一旦日本に帰ると、フランスにて制作していた

 

『貧しきキャフェーの一隅』を

 

12回帝国美術院展覧会に出品し、特選を獲得。

 

そこから再度フランスに渡りますが、

 

2年後に帰国しました。

 

1933年に開かれた第14回・第15回の

 

帝国美術院展覧会の場においては、

 

出展した『画室』と『室内』の両方が特選を獲得し

 

以降も帝国美術院展覧会の場で特選を得ます。

 

なお同年には東京宝塚劇場に入り

 

美術部長となりました。

 

そこでは劇場内のための壁画を制作しています。

 

順風な画家生活に見え、官設美術展の作家として

 

将来が期待されていましたが

 

19364月、37歳の時に自ら命を絶ちました。

 

 

 

作風

 

佐分眞の作品は安定した構図で

 

色彩感覚としても落ち着いており、

 

ある意味安心感のある作風が持ち味と言えます。

 

フランスに渡った際は、フランス国内においては

 

“古典主義への回帰”が言われており、

 

佐分眞の全体的に静穏な作風は

 

そこから来ているのではと考えられています。

 

また再びフランスに訪れた際は、

 

明快な光の明暗が持ち味の

 

レンブラント・ファン・レインなどのオランダ人画家や

 

スペイン人画家の作品について研究し、

 

骨太な写実性も視野に入れていました。

 

 

 

自ら命を絶つ予兆のあった佐分眞

 

佐分眞が自ら命を絶つ予兆は

 

帰国後からあったと言います。

 

所属していた光風会や白日会から抜け出し

 

人との交流が少なくなった状態となり、

 

また作風としてもどこか悲しみが感じられる

 

と言われています。

 

しかし活動終盤の時期には文章を寄稿していたり

 

また遺書は残してはいる模様です。

 

それでも自殺の詳しい原因は判明されておらず

 

遺作展と遺稿集が発表され、そして遺族によって

 

後進の芸術家の活動を後押しする

 

佐分賞が創られました。