山崎覚太郎は1899年6月に
富山市東岩瀬で生まれました。
その後高岡工芸学校や東京美術学校に進学し
両校とも特待生になるなど
優秀な成績を残しています。
20代半ばの頃には日本美術協会展において
『衣裳盆』を出すと推奨となり、
また同じ年のパリ装飾美術博覧会において
『柘榴の硯箱』が金賞を獲得します。
さらにパリ万国装飾工芸美術博や
帝国美術院展覧会などでも受賞を獲得。
日本美術展覧会理事長や日本芸術院会員になるなど
漆芸家として大いに存在感を見せていきました。
また、美術集団の无型(むけい)のメンバーの
一人としても知られており
自由な作風を見せる手段として、
この无型をはじめとして自身の作品を
積極的に発表しています。
山崎覚太郎がこう言った活躍を見せたのは
蒔絵と言う概念を越えて
自由な作品展開を見せた所にあります。
多種多様な色漆とシンプルなデザイン。
それでいて構図は一捻りあると言った
作風が歓迎されたのは、1927年の
第8回帝国美術院展覧会において
出品及び初入選となった『化粧台』から分かります。
他にも昭和29年第10回帝国美術院展覧会における
『蒔絵ストーブ前立』。
1939年の第3回新文部省美術展覧会における
『(蒔絵屏風)猿』と言った作品展開で
山崎覚太郎の独創性を世に知らしめました。
■蒔絵
奈良時代には既に現在の形が出来上がっていた
と言われている、
器の上から漆で文様を描く技法の事です。
またその漆が乾燥していない状態で、
金・銀と言った粉や色粉を散りばめたりする
特色もあります。
他にも研ぎ出し蒔絵や高蒔絵など、
技法は細かく分かれます。
■色漆
透明な状態の漆に顔料を混ぜる事で
色を付ける技法の事です。
漆は漆の木を傷付ける事で出しますが
その状態は生漆(きうるし)とも呼び
鉄粉を入れて酸化させる黒漆など、
様々なものに変化させる事が可能です。
山崎覚太郎の他に、高村光雲を父に持つ
高村豊周や内藤春治、東京美術学校の教授を務める
内藤春治らによって結成されました。
積極的な活動を行い、帝国美術院展覧会において
工芸部が出来るとその勢いを加速化させます。
元々は自由を謳う団体で
様々な芸術家が集結したものでした。
1933年に解散するものの、
実在工芸美術会の前進とも言われます。