岡部嶺男について、その独自の技法と
「永仁の壷事件」との関わりを中心に紹介していきます。
岡部嶺男は1919年10月に愛知県瀬戸市で生まれます。
元々陶芸を営んでいる家系であり、
父は鎌倉時代の古瀬戸の窯趾を発見し、
その技術等を現代に使った、加藤唐九郎として
知られています。
1937年に愛知県立瀬戸窯業学校を出ると、
そのまま父の所で修行を重ね、1952年には
第8回日本美術展覧会に出品した、『志野扁壷』が
初入選となりました。
さらに第10回日本美術展覧会では『青織部壷』で
北斗賞を獲得するなど、その地位を確かなものにし
1962年プラハで行われた第3回国際陶芸展おいては
銅賞を獲得しています。
またその間1959年に「永仁の壷事件」と呼ばれる
父・加藤唐九郎による贋作騒動が行ったのがきっかけで
加藤唐九郎は贋作はしていないとするものの
恐らく世間的なバッシングを避けるためにも
名字を変え岡部姓と名乗るようになります。
岡部嶺男は父と縁を切ったとも言われていますが
父の印象により色眼鏡で見られる事なく、
岡部独自の作品世界によって第3回国際陶芸展で
銅賞を獲得している事から、
その才能が認められているのが分かります。
「永仁の壷事件」は、1959年、
1294年(永仁2年)に焼かれたとされる壺が
重要文化財に指定されたことで始まりました。
指定後から贋作の疑惑が浮上したこの壺は、
2年後には重要文化財から外され、
指定を推薦していた担当者が辞任するなど
大きな騒動となりました。
この壺を制作した、と言われたのが
岡部嶺男の父、加藤唐九郎です。
しかしこの事件では加藤唐九郎・岡部嶺男が両方とも
自分達で作ったとも語っており、
その為、岡部は所属していた日本工芸会を
抜け出す事にもなっています。
以降は無所属になりますが
それでも行った、伝統的な技術を受け継ぎ
現代に合わせた作品作りは、
天才的とも言われています。
そして岡部嶺男の作風には
人間らしさも込められていると同時に
崇高な雰囲気も携えた「嶺男青磁」と呼ばれています。
他に青瓷作りに集中的に行った結果
窯変米色瓷を作っている事も知られています。
「陶器は火と土の音楽」など
陶器を音楽を使った表現で現している事が多い
とされる岡部嶺男ですが、窯変米色瓷はその中で
完成されたメロディとも言い表す事が出来ます。
釉薬による細かな表現の違いが一つの作品の中で現れ
しかも一定のリズムの狂いもないとも言われており、
かつ高位な雰囲気を携えていると絶賛されています。
元々は中国の宋時代に失われた技術である
郊壇官窯青磁を、自身の作家性を持って
現代に復活させました。
青瓷とは平安時代に作られた
銅の酸化で緑色となる緑釉や、鉛の白に銅の緑、
鉄の黄の釉の三彩などで作られた陶器です。
青磁との違いは、青磁は釉の中の鉄によって
緑青色や黄色がかった青色となる、
磁器の事を指します。