横山大観(本名:秀麿)は1868年9月に
茨城県の水戸市藩士の長男として生まれます。
その後21歳のときに東京美術学校に
第1回生として入学し、
思想家でもある校長の岡倉天心や
ダイナミックな展開で知られている
日本画の橋本雅邦の下で学びました。
1893年に東京美術学校を卒業すると
その3年後には助教授となりますが、
内部対立の影響でさらに3年後に
岡倉天心と共に辞任しています。
また同時に、岡倉天心と共に
日本美術院の立ち上げにも関わりました。
やがて横山大観が40代半ばの頃に
岡倉天心は亡くってしまいましたが、
横山はその翌年の1914年には日本美術院を再興しています。
以降も近代日本画を代表する作家として活躍し
1931年、63歳のときには帝室技芸員に認定されました。
代表作は『夜桜』や『生々流転』、
『或る日の太平洋』などがあります。
横山大観は菱田春草(ひしだしゅんそう)と共に
朦朧体の技法を近代日本画に使い、
新たなスタンダードとなった事が特長と言われています。
しかしそれは初期の作品の特長で
その後は水墨画を主な媒体手段して、
東洋的理想主義を掲げている事で知られています。
菱田春草
長野県飯田市出身の日本画家です。
朦朧体によって、光線や空間を
作品内に取り入れる試みもしています。
代表作には黒き猫や落葉などがあります。
ちなみに1903年には岡倉天心の提案で横山大観と一緒に
インドへ渡り、共に美術について学んだ経験もあります。
東洋的理想主義
岡倉天心により発案された考えです。
本来の日本の文化は儒教や道教、仏教などから
精神を学び形作られてきたので、それを
前面に押し出すべきと言った思想内容になっています。
その為か、対象の物事をよく観察した上で
そこにある感情などをあぶり出すとしています。
日本美術院
横山大観や岡倉天心、橋本雅邦など
東京美術学校出身者を中心に立ち上がった団体です。
経営難や岡倉天心の渡米もあって
何度もピンチを迎えていますが、
横山大観が再興に大きく貢献しました。
空気感や光線などを描くために、
輪郭をあえてぼかして描く手法の事です。
しかし時には非難の言葉として、
横山大観や菱田春草に向けても使われています。