室町時代から続く一門です。
初代は室町幕府2代目将軍である、
足利義詮の下で作品を作り続けた
長充(ちょうじゅう)という名の職人でした。
なお楊成の名前は、中国の元代を代表する作家の
張成と楊茂から来ています。
初代以降、堆朱楊成一門は現在まで続きます。
初代の長充は生年月日や没年などが不明ですが、
足利義詮の為に堆朱を作り始めたのは
1360年からという資料が残っています。
初代の堆朱楊成以降も数多くの歴代将軍の下で
作品を創り続け、特に豊臣秀吉に仕えた7代目の長親は
難波彫と称されるほどの評価を得ました。
また8代目の長宗となると、青貝や厚貝などを使った
新たな作風が支持され、江戸を代表する一門として
堆朱楊成の名を知らしめました。
なお10代目の長是以降からは、徳川綱吉を始めとして
歴代の徳川将軍に仕えます。
その後は15代目の長蔭による偕楽園御庭塗りの
堆朱中央卓の製造や、18代目の国平による
日光東照宮の修復など、
国の一大計画を任せられていきました。
また19代目の経長は一時期、
名が途絶えていた堆朱楊成を復活させる事に成功し
21代目となる克彦が受け継いでいます。
彫漆の一つで、塗り重ねた漆の上から
文様を付けるのは彫漆と同じですが、
朱や弁柄を使った朱漆を使うのが特徴です。
花鳥や人物などを描き、彫漆の派生系としては
堆黒や堆黄などもあります。
1330年に生まれた足利尊氏の三男でもある、
室町幕府二代目将軍です。
1331年に起こった元弘の乱が起こった際は
人質として扱われますが、
室町幕府を安定して繋げていった将軍として
評価されています。
堆朱楊成は一時期的に廃業していますが、
それは明治維新によるものと言われています。
明治維新は廃刀令などで武士の権威が消失しましたが
同時に経済混乱を引き起こしたと指摘されています。
また明治維新前後は大きな自然災害も相次ぎ
堆朱楊成の廃業はその影響もあったのでは
と考えられます。
このように堆朱楊成は歴史の転換に
飲み込まれずに対応していった一門と言えます。
また名誉ある仕事も任せられている事から
これからも堆朱楊成の名は
続いていく事が考えられます。