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2019.06.20
骨董品

赤塚自得【工芸作家/漆芸】

赤塚自得(あかつかじとく)

 

赤塚自得は1871年、東京芝区にて生まれました。

 

15歳の頃になると狩野久信と父でもある、

 

6代目の赤塚平左衛門となる鳳船斎林抱から

 

技術を教わります。

 

そして赤塚自得自身も

 

赤塚平左衛門の名を受け継ぐ形となりました。

 

その後赤塚自得の作品は蒔絵の王道と呼ばれ

 

1907年には東京勧業博覧会審査員に。

 

1927年には帝国美術院展覧会審査員を

 

務めるなどします。

 

そしてただ王道と言うだけでなく、

 

時代に流されず自身の作品観を追求し

 

技法の一つ一つにも拘った事から、

 

品位のある作品となったと言われています。

 

 

 

■蒔絵について

 

木材にうるしを塗った漆器の上から、

 

文様を彫り金や銀と錫の粉などを蒔いたものです。

 

見た目が艷やかで華やかになるだけではなく

 

堅牢性もあり、古くは奈良時代から

 

その原型が既にあったと言われています。

 

その技法は平安時代になれば完成され

 

多くの人達の手に行き届きましたが、

 

木炭を使って文様を描く研出蒔絵(とぎだしまきえ)

 

など様々な技法も生まれました。

 

 

 

■白馬会研究所について

 

また赤塚自得は白馬会研究所にて洋画を学んでいた

 

と言う資料も残されています。

 

白馬会研究所とは1896年に明治時代に結成された

 

洋画の美術団体の事です。

 

洋画界の重鎮と呼ばれた黒田清輝や、

 

パリ留学の経験を通して黒田清輝と同じ様に

 

外光派を取り入れた久米桂一郎。

 

同じく洋画家で裸婦画が有名な山本芳翠達が

 

中心となって立ち上げられました。

 

白馬会研究所は明治美術会に嫌気が差した事で

 

外の明るい光を作品内に取り込む外光派の作品を

 

多く発表してきたので、

 

蒔絵の赤塚自得とは何ら接点はないように

 

見えるかもしれません。

 

しかし他の作風を積極的に学ぼうとした姿勢を

 

自由を謳っていた白馬会研究所は

 

歓迎していた事が考えられます。

 

 

 

■蒔絵の当時の立場

 

明治時代の蒔絵の立場は、

 

世界に日本をアピールする為の展示品として

 

見られる傾向が強くあります。

 

国際博覧会条約による万国博覧会や、

 

西南戦争開戦勃発時に始まったと言う

 

内国勧業博覧会用に、蒔絵が作られました。

 

また赤塚自得自身も1925年に、鋳金家の香取秀真や

 

漆芸家の六角紫水と言った、他分野の作家達と共に

 

工芸済々会を結成。

 

この1925年は和暦でいうと大正14年となりますが

 

日ソ基本条約が結ばれたなど

 

日本の世界に向けてのアピールが強まっていた時期

 

と見て間違いありません。

 

その中で工芸済々会も、

 

日本の技術を世界にアピールしていく為の存在として

 

見られていた事が想像できます。

 

ちなみに赤塚自得は他にも帝国美術院会員や

 

帝展審査員を勤めているなどしているので、

 

日本の動向に上手く乗ることの出来た作家の一人である

 

と見て良いと思います。

 

赤塚の作品を通して、蒔絵の当時の立場を

 

うかがい知ることが出来るかもしれません。