赤塚自得は1871年、東京芝区にて生まれました。
15歳の頃になると狩野久信と父でもある、
6代目の赤塚平左衛門となる鳳船斎林抱から
技術を教わります。
そして赤塚自得自身も
赤塚平左衛門の名を受け継ぐ形となりました。
その後赤塚自得の作品は蒔絵の王道と呼ばれ
1907年には東京勧業博覧会審査員に。
1927年には帝国美術院展覧会審査員を
務めるなどします。
そしてただ王道と言うだけでなく、
時代に流されず自身の作品観を追求し
技法の一つ一つにも拘った事から、
品位のある作品となったと言われています。
木材にうるしを塗った漆器の上から、
文様を彫り金や銀と錫の粉などを蒔いたものです。
見た目が艷やかで華やかになるだけではなく
堅牢性もあり、古くは奈良時代から
その原型が既にあったと言われています。
その技法は平安時代になれば完成され
多くの人達の手に行き届きましたが、
木炭を使って文様を描く研出蒔絵(とぎだしまきえ)
など様々な技法も生まれました。
また赤塚自得は白馬会研究所にて洋画を学んでいた
と言う資料も残されています。
白馬会研究所とは1896年に明治時代に結成された
洋画の美術団体の事です。
洋画界の重鎮と呼ばれた黒田清輝や、
パリ留学の経験を通して黒田清輝と同じ様に
外光派を取り入れた久米桂一郎。
同じく洋画家で裸婦画が有名な山本芳翠達が
中心となって立ち上げられました。
白馬会研究所は明治美術会に嫌気が差した事で
外の明るい光を作品内に取り込む外光派の作品を
多く発表してきたので、
蒔絵の赤塚自得とは何ら接点はないように
見えるかもしれません。
しかし他の作風を積極的に学ぼうとした姿勢を
自由を謳っていた白馬会研究所は
歓迎していた事が考えられます。
明治時代の蒔絵の立場は、
世界に日本をアピールする為の展示品として
見られる傾向が強くあります。
国際博覧会条約による万国博覧会や、
西南戦争開戦勃発時に始まったと言う
内国勧業博覧会用に、蒔絵が作られました。
また赤塚自得自身も1925年に、鋳金家の香取秀真や
漆芸家の六角紫水と言った、他分野の作家達と共に
工芸済々会を結成。
この1925年は和暦でいうと大正14年となりますが
日ソ基本条約が結ばれたなど
日本の世界に向けてのアピールが強まっていた時期
と見て間違いありません。
その中で工芸済々会も、
日本の技術を世界にアピールしていく為の存在として
見られていた事が想像できます。
ちなみに赤塚自得は他にも帝国美術院会員や
帝展審査員を勤めているなどしているので、
日本の動向に上手く乗ることの出来た作家の一人である
と見て良いと思います。
赤塚の作品を通して、蒔絵の当時の立場を
うかがい知ることが出来るかもしれません。
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