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2019.06.14
骨董品

上出喜山【工芸作家/陶芸】

上出喜山(かみできざん)

 

上出喜山と言う名前は代々使われている名前で

 

九谷焼の陶芸家を営んでいることで

 

知られています。

 

初代の上出喜山は実家は農家で、

 

1841年に喜三郎が始めました。

 

また、中でもよく知られているのが

 

三代目と四代目となります。

 

そして三代目は初代以来の絵付師でもあります。

 

 

☆三代目・上出喜山について

 

三代目・上出喜山は1898年石川県江沼郡で誕生し

 

父である二代目の手伝いをしながら

 

九谷焼の技術を磨いていきます。

 

また1948年にはフランス式の角窯を自ら作り

 

そこで作った作品を『喜山作陶展』にて

 

愛媛県西条市公民館で公開しました。

 

そのほか更紗小紋と言って草花や鳥獣

 

幾何学文様の更紗を独自発展させ、

 

日本政府に買われるほどの高評価を得ています。

 

☆四代目・上出喜山について

 

四代目・上出喜山は父となる三代目・上出喜山から

 

9歳の時から技術を学んでいました。

 

特に小紋様式を学んだことは

 

四代目・上出喜山の功績を語るのには

 

欠かせない技法となっています。

 

三代目・上出喜山と比べても、

 

その作品は緻密で変化性のある作品として

 

昇華させています。

 

そして三代目・上出喜山と同じ様に政府に認められ

 

陛下御下賜品の指定ともなりました。

 

 

 

■九谷焼

 

1655年に石川県江沼郡九谷村で

 

大聖寺藩が作ったのがきっかけです。

 

一時期廃れるものの、加賀藩によって

 

再び作られるようになりました。

 

全体的に落ち着いた色合いながら多くの色が使われ

 

大胆なデザインのある九谷焼は、

 

1873年のウィーン万博での成功で、

 

世界に向けて広まるようになりました。

 

 

分業制が一般的

 

また九谷焼は多くの作品を世に出せるように

 

分業制が一般的となっています。

 

例えば素地を作る素地(きじ)師や

 

色塗りを行う上絵師など、専門の職人がいます。

 

なお、この九谷焼の分業化に成功したのは

 

1816年に誕生した陶画工である

 

九谷庄三の功績も大きいと言われています。

 

九谷庄三は素地窯と錦窯と分けるなどしました。

 

そしてこのように分業制が一般的な九谷焼において

 

四代目・上出喜山の場合は、

 

一貫して作り上げていることで知られています。

 

 

 

九谷焼を進化させている上出喜山

 

量産化は例えば焼き物なら

 

それ自体の個性が無くなるのではないか?という

 

肯定的になれない考えも出てくると思います。

 

しかし三代目・上出喜山の場合は更紗小紋の独自発展

 

四代目・上出喜山は一貫した作業を行い

 

父の個性を受け継いだ上で昇華させているなど

 

九谷焼を進化させていると言えます。