上出喜山と言う名前は代々使われている名前で
九谷焼の陶芸家を営んでいることで
知られています。
初代の上出喜山は実家は農家で、
1841年に喜三郎が始めました。
また、中でもよく知られているのが
三代目と四代目となります。
そして三代目は初代以来の絵付師でもあります。
三代目・上出喜山は1898年石川県江沼郡で誕生し
父である二代目の手伝いをしながら
九谷焼の技術を磨いていきます。
また1948年にはフランス式の角窯を自ら作り
そこで作った作品を『喜山作陶展』にて
愛媛県西条市公民館で公開しました。
そのほか更紗小紋と言って草花や鳥獣
幾何学文様の更紗を独自発展させ、
日本政府に買われるほどの高評価を得ています。
☆四代目・上出喜山について
四代目・上出喜山は父となる三代目・上出喜山から
9歳の時から技術を学んでいました。
特に小紋様式を学んだことは
四代目・上出喜山の功績を語るのには
欠かせない技法となっています。
三代目・上出喜山と比べても、
その作品は緻密で変化性のある作品として
昇華させています。
そして三代目・上出喜山と同じ様に政府に認められ
陛下御下賜品の指定ともなりました。
1655年に石川県江沼郡九谷村で
大聖寺藩が作ったのがきっかけです。
一時期廃れるものの、加賀藩によって
再び作られるようになりました。
全体的に落ち着いた色合いながら多くの色が使われ
大胆なデザインのある九谷焼は、
1873年のウィーン万博での成功で、
世界に向けて広まるようになりました。
分業制が一般的
また九谷焼は多くの作品を世に出せるように
分業制が一般的となっています。
例えば素地を作る素地(きじ)師や
色塗りを行う上絵師など、専門の職人がいます。
なお、この九谷焼の分業化に成功したのは
1816年に誕生した陶画工である
九谷庄三の功績も大きいと言われています。
九谷庄三は素地窯と錦窯と分けるなどしました。
そしてこのように分業制が一般的な九谷焼において
四代目・上出喜山の場合は、
一貫して作り上げていることで知られています。
量産化は例えば焼き物なら
それ自体の個性が無くなるのではないか?という
肯定的になれない考えも出てくると思います。
しかし三代目・上出喜山の場合は更紗小紋の独自発展
四代目・上出喜山は一貫した作業を行い
父の個性を受け継いだ上で昇華させているなど
九谷焼を進化させていると言えます。