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2019.05.17
骨董品

秋野不矩【文化勲章/日本画】

秋野不矩(あきのふく)

 

秋野不矩(本名:ふく)

 

19087月に静岡県で生まれました。

 

18歳の時に静岡県女子師範学校を卒業し

 

一時期は同学校で教師として働いていたものの、

 

画家希望であった秋野は帝国美術院展覧会を代表する

 

石井林響の内弟子となります。

 

そして21歳の時には

 

西山翠嶂が開く画塾の青甲社に参加。

 

2年後、『野を帰る』で帝国美術院展覧会にて

 

初入選を果たし、さらに1938年の『紅裳』では

 

新文部省美術展覧会で特選を獲得しました。

 

やがて1948年には上村松篁や山本丘人達と共に

 

創造美術を設立します。

 

その後、50代半ばの頃には、

 

インドの大学に招待されたのをきっかけに

 

作風にも変化が現れ、現地の材料をつかった

 

新たな作風を開拓しました。

 

これらの功績を経て、秋野不矩は1999年、

 

91歳のときに文化勲章を受章しています。

 

 

 

作品の特徴

 

秋野不矩の作品は、庶民的なインドの風俗や

 

自然を描いている所に特徴があります。

 

鮮やかな色彩で描かれた作品を通して、

 

インドの風土感が伝わります。

 

またインドに渡る以前に制作した1931年発表の

 

『野を帰る』は、麦畑にいる赤ん坊を抱えた

 

朝鮮人の女性の姿を描いているなど、

 

日本画でありながらも海外を描いている所は

 

珍しさがあると感じます。

 

なお残念ながら『野を帰る』は

 

火事で消失してしまいましたが、

 

秋野不矩が在籍していた県立天竜高の同窓生が

 

作品の復元を行いました。

 

ちなみに1938年に発表した『紅裳』は、

 

紅い着物を着た5人の女性が描かれています。

 

 

 

インドを描くようになったきっかけ

 

秋野不矩がインドを描くきっかけとなったのが、

 

京都市立美術大学助教授として働いていた経験です。

 

着任してから10数年後、仏教美術を専攻していた教師に

 

ビスバ・バーラティ大学での客員教授赴任を誘われ

 

承諾しました。

 

赴任期間は一年間であったものの、

 

秋野のインドに対しての愛着は尽きること無く

 

生涯に渡り14回もインドに渡る事となります。

 

 

 

作品の背景

 

日本画

 

日本画は必ずしも

 

日本について描かれたものとは決まっていません。

 

欧州から入ってきた製作技法と区別するために

 

元々日本で主流となっていた技法を

 

日本画と呼んでいましたが、

 

インドを描いた秋野不矩の作品に代表するように

 

年々その定義は曖昧になっていると言われています。

 

石井林響

 

水墨山水や人物画などが有名です。

 

江戸時代を代表する琳派的作風や、

 

中国ベースの南画へと作風が移り変わっています。

 

西山翠嶂

 

師匠の竹内栖鳳譲りの、

 

華やかで洗練された雰囲気の

 

人物風景画が知られています。