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2019.04.19
骨董品

川端龍子【文化勲章/日本画】

川端龍子(かわばたりゅうし)

 

川端龍子は、1885年に和歌山県に生まれました。

 

10歳の頃には母と妹とともに東京へ移り

 

東京府立第三中学校に入学しています。

 

同校の在学中には読売新聞に作品を投稿して

 

賞金を得るなど、幼い頃からその才能を

 

発揮していました。

 

この経験が後の画家を目指す

 

きっかけになっていきます。

 

また、その後川端龍子は白馬会絵画研究所、

 

太平洋画研究所に属して洋画を描いていましたが

 

28歳の頃に渡米し、ボストン美術館で目にした

 

「平治物語絵巻」に強く影響を受け

 

帰国後は日本画家を目指し始めました。

 

やがて1915年に「珊瑚会」を平福百穂らと結成し、

 

同年、第3回院展で『霊泉由来』が樗牛賞を受賞します。

 

その後も独学で日本画を習得し

 

32歳のときには日本美術院同人となりました。

 

また、1929年には「青竜社」を創立して

 

主宰として務め、多くの大作を出品しています。

 

さらに翌年の第2回青竜展では

 

『魚紋』が朝日賞を受賞しました。

 

これらの功績が評価され、川端龍子は1959年

 

74歳のときに文化勲章を受章しています。

 

また、自宅に『竜子記念館』を建設して

 

自身の作品を一般公開しました。

 

 

 

川端龍子の作品の特徴と技法

 

川端龍子は、当初挿絵画家として

 

生活の収入を得ていた時期もありましたが、

 

1913年の洋画を学ぶための渡米を契機に

 

岩絵の具を使って描く日本画の制作に転じています。

 

これはボストン美術館で観た東洋の古画や

 

「平治物語絵巻」、図書館で観た

 

「ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの大壁画」から

 

大きな感銘を受けたことがきっかけでした。

 

後に唱えた「会場芸術主義」も

 

この大壁画の影響からだといいます。

 

その代表作の『火生』は

 

日本武尊の伝説を取材したもので、

 

火焔を金泥で表現し、

 

日本武尊の体を赤色で描写した

 

会場での色彩的な展示効果を狙った作品でした。

 

また、川端龍子が唱えた「会場芸術主義」は

 

芸術と大衆を結びつけることを言い、

 

大画面主義、健剛なる芸術の創造の

 

2点の主義を意味しています。

 

これは『行者道三部作』で体現されました。

 

 

 

川端龍子の評価される所以

 

川端龍子の作品は、大胆な線を駆使した

 

独特のバロック調でエネルギーに溢れていましたが

 

その闊達な筆致が衰えることはありませんでした。

 

会場芸術主義で大作を晩年まで発表し続け

 

その並外れた大画面の作品は

 

独自の芸術世界を切り開きました。