日本画家の下村観山は、
1873年に和歌山市で生まれました。
1881年に上京し祖父の友人の藤島常興に絵を習い、
狩野芳崖、橋本雅邦に師事して日本画を学びました。
その後、東京美術学校を第1期生で卒業すると
助教授となって後進の指導にあたり、
自身も絵画の創作に打ち込んでいきます。
その後23歳の頃には、岡倉天心が
「日本絵画協会」を設立すると横山大観、
菱田春草とともに参加し積極的に活動しました。
約3年後には岡倉天心、横山大観、菱田春草らと
日本美術院の創立に携わっています。
やがて日本美術院と日本絵画協会との連合で開催された
第1回日本美術展に「闍維」を出品し、
最高賞の銀賞を受賞しました。
1903年には文部省から英国に渡るように命じられ、
西洋画の研究を行った後に、
文部省美術展覧会(文展)が設立された際に
「木の間の秋」を出品。
この時は審査員も同時に務めています。
41歳のときには横山大観と共に日本美術院を再興し、
1917年、44歳のときに帝室技芸員に任命されました。
下村観山の作風は、琳派の花木表現、
装飾的な画面の構成、金地、溜込の技法などを使い、
下村観山独自の象徴的な絵画を形成したと言えます。
古典的な技法や作風を守りながら、
新しい画風を築いています。
下村観山の作品を見てみますと、
「木の間の秋」ではその秋草や葛の表現や
樹の幹に見られる溜込の技法は
琳派の影響を強く受けていますが、
「小倉山」の頃の作風は、画中の樹木が
極端に簡素化されており、楓や松の木が異様に強調されて
その空間の対比は大胆なものとなっています。
さらに、「白孤」の作品ではその傾向が
更に強くなっていき、「弱法師」において画面構成、
装飾的な表現を用いつつ
その精神性の高さが示されています。
その表現は、琳派の花木図に加えて、
桃山・江戸期の狩野派の障屏画も意識していた
形成期が見受けられます。
下村観山の作品は、琳派の花木表現、
装飾的画面構成に併せて金地、溜込技法を駆使した
象徴的な表現で精神性、夢幻性も織り込み
新しい画風の世界を開きました。
古典的な技法や表現に加えて、下村観山独自の
近代美術の構築に寄与しています。