玉川宣夫は1942年1月に新潟県下田村で生まれます。
やがて13歳になると新潟で現在200年ほどの歴史を持つ
玉川堂五代目の玉川覚平の次男として転籍。
1959年には玉川堂に入社しました。
また21歳の時には
打出しや接合せと言った技法が支持されている
人間国宝の関谷四郎の内弟子として
2年間修業を行います。
そして27歳の時に日本伝統工芸展に初入選を果たし
2010年10月、人間国宝として認定されました。
ちなみに同じ年の10月には
燕市名誉市民の称号も贈呈されています。
玉川宣夫は、江戸時代中期に
仙台の職人が新潟県燕市に伝えたとされている
鎚起銅器の技術をベースにした、
木目金の技法を使った作品作りが支持されています。
鎚起銅器
鎚起銅器は燕市にある霊山の
弥彦山と瀬銅山から採れる
質の高い銅によって作られています。
(新潟県自体が銅が採れる山が
多い事で知られています。)
それを仙台の職人が1枚の銅板から
継ぎ目無く作り上げる鎚起銅器の技法によって伝え
明治維新以降は市全体で生産が特に活発になり
代表する伝統工芸品となりました。
そして1816年に玉川覚兵衛が
鎚起銅器の技法を習得し、玉川堂を設立。
ちなみに鎚起銅器は特にやかんが有名ですが
他にも鍋や釜なども玉川堂及び燕市で作られています。
木目金について
木目金とは銀や銅や赤銅など、違う種類の金属板を
10枚から30枚分合わせてから
金槌で叩き伸ばす技法で、色味の違う
木目状の文様が生み出されます。
江戸時代初期に生まれた金属加工技術と言われ
現在では海外にも知られており
「MOKUMEGANE」と言われています。
他にも木目金は、柔らかくするため
熱してから冷やす焼き鈍しや
鏨を使った彫金の作業など
様々な工程が必要となり、体力が必要と同時に
精神力と集中力が強く求められると言われています。
しかし玉川宣夫はその苦しさがあると同時に
それを超える作品が出来上がっていく様子を
楽しんでいる旨の発言をしています。
着色
他にも玉川堂では溶液に浸す独自の着色を
木目金に施すことに成功しています。
燕鎚起銅器は熱の伝導が満遍なく伝わる事で
やかんや鍋や釜などに使われていますが
他にはプレートやワインクーラー用にも
作られています。
燕鎚起銅器は安価の値段で
提供できるものでは無いものの
使うほどに光沢や色合いや深みが増していく所に
面白さがあると言われています。
そして玉川宣夫は2010年10月に
人間国宝として認定されるのを記念して
燕市産業史料館で作品展
「玉川宣夫 金工展
~回帰・薬罐屋(やかんや)の頃~」を開催。
玉川宣夫は
「燕市が燕鎚起銅器としても
産業が盛んであるからこそ、今の私がいる」
と言った旨の発言をしており
作品展示がその恩返しとなりました。
現在でも、玉川宣夫は玉川堂にいる
若い職人に技術を伝えています。