歌川国芳(1797年・寛政9年 〜 1861年・文久元年 享年65歳)
国芳は1797年寛政9年に江戸日本橋本銀(ほんしろがね)に生まれ、父は染物屋を営んでおり絵が好きになる環境は整っていたと思われます。
七、八歳の頃より人物描法を学んでいて、十二歳の頃に描いた鍾馗像を見た初代歌川豊国に入門を進められ文化八年(1811年)に初代豊国の門下にはいりました。
兄弟子には国直、国貞がおり才能溢れる兄弟子に追いつくべく研鑽を努めていきます。
国芳は「採芳舎国芳」と名乗っていた時代があり国貞などの兄弟子を上回ることのできない悩みなどで迷いがあった時代とされているが「平知盛亡霊図」などの作品で評価を受け始め後の代表作となる水滸伝にも続く構図の「隠岐次郎広有」も採芳舎国芳落款で描いています。
武者絵に才覚を表しはじめた国芳は風景版画、狂画、風刺画、動物画でも庶民の指示を受けはじめ、その頃パトロンとなる梅屋鶴寿と出会い一気に国芳の名が世に広まっていくのであります。
そして文政十年頃、中国の豪傑物語「水滸伝」が大流行し版元である加賀屋は大判錦絵シリーズに国芳を指名し、また国芳もそのチャンスに果敢に挑みその人気を決定的にした「通説水滸伝豪傑百八人之一個」が誕生しこれを機に画壇に確固たる地位を築くこととなります。
国芳は人気に胡座をかくことなく、その後も美人画や西洋様式を取り入れた風景版画の作画など貪欲に活動を続けていきます。
国芳の迫力のある画風の水滸伝や武者絵はそれまで主に筋彫りであった入れ墨文化にも影響を与え、国芳の画と同様のものをいれるのが流行したと言われています。
天保八年頃国芳は結婚を気に向島に移り住み多くの弟子をとるようになり、その中にまだ子供だった河鍋暁斎がいたことも有名です。
この頃幕府の倹約令による過料に科せられたり、幕府の改革を風刺したとされ、当局より咎められたりもしましたが、その風刺画とされた「源頼光公館土蜘作妖怪図」、「朧月猫の草紙」「縞揃女弁慶」など傑作が次々と生まれます。
50歳を越えても国芳の創作意欲は衰えなず、通常の絵師は限られたサイズの中で制作を行いましたが、国芳は通常一枚ずつ鑑賞できるように描く三枚続を一つのテーマで三枚に渡って書き綴る巨大絵を発表していました。その構図は今みても圧巻と形容できる見事なものであります。
そんな国芳も60歳を過ぎると体に異変をきたす様になり中風に倒れますが、病を引きずりながらそれでも制作を続けかなりの数の作品を残していっていました。
しかし文久元年(一八六一年)六十五歳で没しました。
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