
こんにちは。鎧兜や武具、日本刀など、骨董品・古美術品の買取を行っている買取専門店『くらや松山店』です。愛媛県で鎧兜の買取をご希望される方は、是非『くらや松山店』をご利用ください。
さて、今回は鎧兜の買取についてのお話です。武具としての魅力はもちろん、美術品・骨董品としても価値が高い甲冑は、高価買取に繋がることも珍しくありません。
「蔵の片付けをしていたら、古い鎧兜を見つけた」「物置においたままの甲冑の処分に困っている」という方は、買取経験が豊富なプロの鑑定士が在籍する『くらや松山店』へ是非ご相談ください。
鎧は、矢や刀などといった武器による攻撃から身体を防護する武具を指します。兜は、打撃や斬撃、飛来物などから頭部を守るための武具です。鎧や兜、その他の防具を合わせたものの総称を甲冑と言います。
鎧や兜を見ることが少なくなった昨今。目にする機会があるとすれば、5月5日の端午の節句に飾る五月人形ぐらいでしょうか。日本では、鎧や兜を厄除けとして飾るしきたりが江戸時代の頃からあったそうで、それが今も尚受け継がれています。
戦の絶えない時代に多くの武士の命を守ってきた鎧兜。時代の変化とともにその役割はどのように変化を遂げていったのか、まずは歴史を辿ってみましょう。
鎧兜の歴史は弥生時代まで遡ります。この頃の甲冑は木製が主でしたが、古墳時代に入ると短甲(たんこう)とよばれる甲冑が着用されていたようです。短甲は腰から上を防御するための甲冑で、これと併せて中国大陸から伝来した挂甲(けいこう)という甲冑も使用されました。
奈良時代に普及したのは、中国の唐からもたらされた綿襖冑(めんおうちゅう)と呼ばれる甲冑です。綿襖冑は布製で、碧地には朱、赤地には黄、黄地には朱、白地には黒、黒地には朱で甲板の画が描かれていました。鎧としての役割だけでなく防寒の機能もあったことから、北東アジアなどの寒い地方で好まれていたそうです。
武士が台頭した平安時代には、騎馬武者が戦いやすいよう改良が加えられた〈大鎧〉が登場します。大鎧は、小札(こざね)、絵韋(えがわ)、威毛、金具廻り、金物の5つの基本素材によって構成された鎧です。
この頃は騎馬による射戦が基本であったため、肩から左右に大袖を吊るし、腰からは4枚のどっしりとした草摺を垂らすなど、鞍の上で安定をはかるための様々な工夫が施されました。保元の乱や治承・寿永の乱では、武士の正式な甲冑として大鎧が使われていたようです。
時代が変わり、戦場は山城へ。騎馬武者は今までと同じように大鎧を着用していましたが、徒歩での戦闘には〈胴丸〉が用いられるようになりました。胴体周囲を囲える胴丸は右脇で開閉ができるようになっており、ひとりでも簡単に着脱できることが最大の特徴です。
鎌倉時代の絵巻物〈平家物語絵巻〉や〈蒙古襲来絵詞〉にも、胴丸を着用した武士が登場しています。重くて動きにくく高価であった大鎧に代わり、軽くて安価な胴丸は当時大変注目されていた防具だったのです。
下級の徒歩武士だけでなく騎乗の上級武士にも使われるようになった胴丸は、次第に装飾の華やかなものが増えていきました。鎌倉時代後期頃には紅裾濃(くれないすそご)など2色以上を配する威(おどし)が作られるようになり、南北朝時代には色々威(いろいろおどし)や妻取威(つまとりおどし)など、3色以上の威毛が流行していたそうです。
この頃には、胴丸よりもさらに安価で製作できる〈腹当〉〈腹巻〉も誕生します。南北朝時代に入り全国的に戦乱の世になると、大鎧や胴丸の生産が間に合わず、急速に改良された腹巻が防具として台頭していくこととなったのです。
胴丸、腹当、腹巻の優れた機能と構造は時代を越えて踏襲され、それぞれ江戸時代まで存続していきます。
ポルトガルから種子島に鉄砲が伝わった1543(天文12)年。戦闘様式が大きく変わり、銃弾から身を守れる軽くて頑丈な防具が求められるようになりました。この時登場したのが、鉄板を多用してつくられた完全防備の甲冑〈当世具足〉(とうせいぐそく)です。
従来の兜の他に、肩から腕を守る籠手、腿を守る佩楯(はいだて)、脛を守る脛当などの防具が備わり、更には顔面と喉を守る面頬(めんぽお)もつくられました。
天下泰平の世となった江戸時代。実戦を想定した当世具足もまだ存在していたようですが、着用する機会が無くなった鎧兜は、武士の威風を示すための装飾品として儀式的に使われるようになりました。
異国船の来航、そして戊辰戦争が勃発した幕末。再び鎧兜を着用する機会が訪れたものの、甲冑の着方を知らない、甲冑を準備していないという人も多く、甲冑師への注文や着用法に関する指南本の発注が殺到したという逸話も残っています。
その後明治維新を迎え、日本の鎧兜は武具としての役割を終えたのでした。
身を守る実用的な防具でありながら、その装飾性の高さにも注目されていた甲冑。世界には、歴史や戦闘方法の変遷により独自に進化を遂げた甲冑が数多く存在しています。
西洋の甲冑と聞くと、全身を金属で覆った〈プレートアーマー〉を思い浮かべる方も多いでしょう。着る武器であったプレートアーマーは、籠手に短剣やスパイク、メリケンサックなどの武器を取り付けることもできました。
甲冑という概念の最終形態ともいえるプレートアーマーの長所は、なんといっても防御力の高さ。肩や肘などは鋲で連結された数枚の鉄板で守られており、肌の露出を防ぐと同時に関節の滑らかな動きも実現しました。
当時のヨーロッパの甲冑師達は非常にレベルが高く、名工と呼ばれる職人も存在していたようです。次第に甲冑は、騎士にとって〈高価な装飾品〉〈ステータスシンボル〉として機能するようになり、やがて武具としての役割を終えます。
儀礼用の装飾を施したパレードアーマーは、現代でも珍重される美術品です。
南北朝時代から唐代にかけて使用された明光鎧(めいこうがい)は、三国志の武将たちの鎧として度々描かれているため、イメージしやすい方も多いのではないでしょうか。
明光鎧は、胸部と背中を守る大きな楕円状の鉄板〈護心鏡〉が特徴の鎧です。鉄板が鏡のように光を反射することが、その名の由来なのだとか。南北朝時代には、明光鎧を着て戦った北周の将軍・蔡祐が、敵から鉄猛獣と呼ばれ恐れられたというエピソードも残っています。
三国時代から南北朝時代の初期につくられた筒袖鎧(とうしゅがい)は、全身が鱗状の金属片で覆われた鎧です。袖が付いており、頸部、上腕部、脇の下も保護されていたことから、その防御力は極めて高いとされていました。
古代エジプトの装備は比較的シンプル。中王国時代までは裸に腰布一枚のみで戦っていました。エジプト新王国時代になると、皮革や綿の詰め物で作った衣類の上に、鱗上の金属片を綴り合わせた小札鎧を身に着けるようになっていったそうです。
幼少期から馬に乗り弓を射る訓練を積んできたモンゴルの兵士たちは、高度な技術を持っていました。鎧は身に着けず、厚い革製のフロックコートを着用して戦闘に挑んでいたようです。矢の攻撃によるダメージを最小限に抑えるために、シルクの上着や詰め物をした上着を羽織って戦いました。
査定の際に特に重要なのは、〈甲冑師〉〈制作時期〉〈付属の箱〉です。付属の箱に甲冑師の名前を示す銘が記載されている場合がありますので、処分してしまわないようお気を付けください。
銘が入れられていないものであっても、特徴を見れば制作年代や流派は分かります。有名な甲冑師が手掛けたもの、生産量の少ない時代の作品などは高価買取が期待できるでしょう。
貴金属やブランド品とは異なり、武具の価値というものは一般の方には分かりにくいものです。そもそも、鎧や兜が買取対象であること自体あまり知られていません。日本をはじめ、世界各国で独自に進化を遂げた甲冑は美術的価値が高く、買取市場においても人気のあるお品物なのです。
甲冑や武具の買取は、専門の知識を持った鑑定士が在籍する『くらや松山店』にお任せください。豊富な買取経験と販売経路を駆使し、蔵やご自宅に眠ったままの鎧兜を高価買取いたします。
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