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藤原雄【人間国宝/備前焼】

藤原雄(ふじわらゆう)

 

備前焼の重要無形文化財保持者として

 

1996年に人間国宝として認定された陶芸家であり

 

同じく人間国宝であった

 

父・藤原啓の下で作陶に励みました。

 

ここでは藤原雄の生涯と作風について

 

ご紹介していきます。

 

 

 

来歴

 

藤原雄は1932

 

岡山県備前市にて生まれます。

 

父は人間国宝でもある藤原啓で

 

藤原啓が最初は作家志望で

 

編集者として携わっていたように

 

藤原雄もまた雑誌編集者として働きます。

 

 

しかし生まれつき左眼は失明し

 

右眼の視力は0.03の弱視であった雄が

 

編集者としても陶芸家としても

 

苦難を強いられたことは想像に易くありません。

 

やがて藤原雄は雑誌編集の仕事を辞め

 

故郷に戻った際、

 

陶磁研究家でもあり陶芸家でもある

 

小山冨士夫の後押しも手伝い、陶工となります。

 

その後父の指導の下で備前焼作りが始まり

 

父と同じように1996年には

 

備前焼の普及が認められ

 

人間国宝となりました。

 

そして2001年、10月にこの世を去りました。

 

 

 

作風について

 

藤原雄の作風の特徴は

 

とにかく一目で見れば藤原雄が作ったもの

 

と分かるくらい、温かみがありながらも

 

自由性がある所と言われています。

 

備前焼の持っている魅力を

 

そのまま活かしているとも言われ

 

作品を見る者の心に

 

温かい感情を語りかけてきます。

 

事実、藤原雄は生前

 

「人間の持っている様々な温かい感情が

 

作品から感じるようにしないといけない」

 

と言う旨の言葉を語っています。

 

しかしそのメッセージ性を

 

強く押し付けるのでなく、

 

むしろ穏やかな雰囲気であるのが

 

藤原雄の特徴です。

 

 

 

備前焼の技法

 

氏の作品に限らず

 

備前焼でよく使われている技法は

 

「削ぎ」や「透かし」、「線彫」などです。

 

「透かし」や「線彫」などで

 

模様を付けていますが

 

「削ぎ」も重要な部分となります。

 

 

「削ぎ」はその名の通り、凸凹した部分を

 

ヤスリなどで削って取っていく作業の事です。

 

しかしその削ぎをし過ぎると凸凹があまりにもなくなり

 

そうすると素っ気ないとも言われます。

 

よって「削ぎ」も作家性が問われる部分となり

 

藤原雄もその技法を自身の作風に活かしました。

 

 

 

国内外の反響

 

藤原雄は30代に差し掛かると

 

世界中で注目を集めるようになります。

 

まず1963年、31歳の時に

 

スペイン・バルセロナでの

 

「国際陶芸展」に招待され出品し

 

そこで大賞を獲得しました。

 

その翌年となる1964年には1月から8ヶ月に渡り

 

アメリカやカナダ、スペインやメキシコで

 

備前焼の講座をします。

 

また同年には

 

オーストラリア政府からの依頼で

 

シドニー大学でも講座を受け持ちました。

 

それ以後も海外で講義を続け

 

日本陶磁器協会賞や金重陶陽賞も受賞。

 

国内外問わず個展も行っていきます。

 

 

そして1996年、

 

国内外に向けて備前焼の発展と

 

普及をした事が認められ

 

人間国宝となったのです。

 

 

 

福島善三【人間国宝/小石原焼】

福島善三(ふくしまぜんぞう)

 

福島善三は2017年、わずか58歳と言う若さで

 

人間国宝に認定されました。

 

ここでは氏が作っている小田原焼の特徴と

 

歴史を織り交ぜながら

 

福島善三について紹介していきます。

 

 

 

来歴

 

福島善三は1959 1029日に

 

福岡県朝倉郡にて生まれます。

 

小石原焼の窯元の息子として育ちますが

 

陶芸家の道に進むことを決定付けたのは

 

朝倉高校を卒業し、福岡大学で

 

学生生活を送っていた所から始まります。

 

その頃窯を見るため

 

様々な場所を訪れていたのですが

 

自身と深く結び付く小石原の素晴らしさを知り

 

1982年に大学を卒業すると同時に

 

家業を受け継ぎました。

 

 

そして現在も201758歳の時に

 

重要無形文化財「小石原焼」の保持者として認定され

 

「陶芸界の若き人間国宝」と称されながらも

 

挑戦を常に忘れない作品作りを知られています。

 

 

 

小石原焼について

 

小石原焼は朝倉郡の東峰村や小石原地区において

 

400年ほども続く陶磁器として知られています。

 

実用性がありながらもモダンで

 

あまり肩苦しく感じさせない見た目は

 

世界中に支持者がいます。

 

また、日本で初めて

 

伝統工芸品として指定された歴史も

 

小石原焼にはあります。

 

そして東峰村には小石原焼の展示や

 

体験も可能な

 

「小石原焼伝統産業会館」があります。

 

 

 

人間国宝の認定が被災した住民の励みに

 

2017721日に、重要無形文化財保持者として

 

福島善三は人間国宝として選定されました。

 

その2週間ほど前となる75日に

 

九州北部豪雨災害が起こり、

 

東峰村では窯元が被災し

 

多くの蔵元が廃業せざる得ない状況まで

 

追い込まれました。

 

 

しかしその中で福島善三が

 

人間国宝として認定される運びになったのは

 

地元の大きな励みとなりました。

 

また県と村とよって、被災した窯元達が

 

共同で使える窯が作られる事が

 

被災から1ヶ月後となる8月に発表されました。

 

 

 

小石原焼の技法と福島善三の代表的作

 

福島善三が受け継いた小石原焼は

 

工具の刃先によって削り目を連続で入れる

 

「飛び鉋」と言う技法を使っています。

 

小石原焼特有の

 

素朴かつ堅苦しくない柔らかい色合いは

 

「飛び鉋」からも来ています。

 

他に小石原焼には様々な技法が使わてれおり

 

例えば白泥が塗られた土に

 

釉をかけ刷毛目を残す「刷毛目」。

 

表面が柔らかい状態の素地に

 

竹ぐしや金ぐしなどで模様をつける「櫛目」。

 

さらに「流し掛け」や「指描き」、

 

「打ち掛け」などがあります。

 

 

 

福島善三の信念

 

福島善三は他にも中野月白瓷鉢や赫釉鉋文壷

 

福岡市長賞を受賞した中野月白瓷組平皿や、

 

日本工芸会総裁賞の名誉を受けた

 

鉄釉掛分条文鉢など

 

名作を多く生み出しています。

 

しかしこれらは今までの小石原焼と大きく姿が違い

 

一部で批判の声が上がっています。

 

 

ですがそれは福島善三の

 

「伝統を守るには変えていくこと」という

 

信念によるものです。

 

福島善三は今でも

 

挑戦的な作品作りを行っています。

 

 

 

藤原啓【人間国宝/備前焼】

藤原啓(ふじわらけい)

 

 

40歳で陶芸の道を歩み始めた藤原啓。

 

ここではその歩みを備前焼の由来や

 

技法などを交えながら紹介していきます。

 

 

 

来歴

 

 

藤原啓は1899

 

岡山県備前市穂浪にて生まれました。

 

人間国宝となる陶磁器家は

 

実家が窯元であるのことが比較的多いのに対し、

 

藤原啓の場合は農業を営む家庭に育ちました。

 

また藤原啓は元々作家志望で

 

俳句で賞を獲ったり出版社の編集に関わったりしますが

 

途中でその道を断念しています。

 

 

藤原は40歳となった1939年に故郷に戻り

 

弟の勧めで三村梅景から

 

備前焼を教わることとなります。

 

また2年後の1941年には金重陶陽の指導を受けたり

 

そのほか北大路魯山人と言った面々からも教わります。

 

 

1970年に重要無形文化財保持者として

 

人間国宝に認定され

 

その後198311月に肝臓ガンで亡くなりました。

 

 

 

備前焼と藤原啓

 

 

鎌倉・室町次第の備前焼をベースにしています。

 

藤原啓の作品の特徴は

 

鎌倉備前を基本としながらも素朴でたくましく

 

そして大らかで温かみのある所です。

 

藤原啓自身は自身の作品を

 

「たくましく育った田舎娘」と称しているようですが

 

藤原啓の人柄がそのまま現れているようだ

 

というのがもっぱらの評判です。

 

 

また師となる金重陶陽は

 

桃山時代の作品の再現を追求しているのですが

 

藤原啓の場合は鎌倉・室町次第の古備前が

 

作品作りのベースになっているようです。

 

よって前述したような作風が生まれ

 

作品は「藤原備前」とも称されています。

 

 

 

備前焼

 

備前焼は日本六古窯の一つで

 

釉薬を使わず焼成した時の状況が

 

ダイレクトに出る焼き物として知られています。

 

1200度以上の薪窯の中で粘土中の金属成分や

 

松割木の灰、藁などが複雑に混じり合い

 

素朴ながらも様々な表情が生まれます。

 

備前焼の作家はもちろん意図を込めて

 

それらの事を考えて作品作りに取り掛かりますが

 

予期しない結果が生まれることもあり

 

それも魅力の一つとして数えられます。

 

 

備前焼は元々、岡山県瀬戸内市にて

 

古墳時代から続く須恵器をベースにしています。

 

須恵器と同じ青灰色と

 

最初は須恵器の影響を色濃く受け継いでいました。

 

ですが南北朝時代の後半になると

 

赤褐色のものに変わりました。

 

またその備前焼に

 

岩絵具や胡粉などで色付けしたものを

 

彩色備前と言うのですが

 

藩を治める人達への贈り物だったことから

 

当時の一般の人は見る事はありませんでした。

 

ちなみに桃山時代以前のものは「古備前」。

 

江戸時代からのものは「伊部焼」とも言われています。

 

 

金重陶陽はその備前焼の新作を現代に作った事により

 

人間国宝として認定されますが

 

藤原啓もまた違う時代の備前焼を

 

復活させた事になります。

 

そして備前焼において

 

藤原啓は金重陶陽に続いて

 

2番目の人間国宝となります。

 

 

元々作家志望立った事から

 

備前焼作家として遅い始まりとなった藤原啓。

 

しかし備前焼にも以前の夢と同じように

 

情熱を注いだ事から

 

人間国宝にまでなったのは何か勇気を頂けます。

 

 

 

山本陶秀【人間国宝/備前焼】

山本陶秀(やまもととうしゅう)

 

山本陶秀は早熟の天才ながら長寿となった晩年まで

 

作品を作り上げてきた事で知られています。

 

ここではその来歴や作風などを紹介していきます。

 

 

来歴

 

山本陶秀は19064月に

 

岡山県備前市にて4男として生まれました。

 

陶芸家としては早熟で192115歳の時に

 

備前藩主の池田光政で有名な備前市最大の窯元

 

黄薇堂に入り作品を発表します。

 

そして27歳の時には独立しました。

 

 

1938年には作家集団「赤土社」のメンバーでもあり、

 

代表作「白磁四方花瓶」でも知られている

 

楠部弥弌に師事しています。

 

その後81歳となった時に

 

優れた備前焼の技術が認められ

 

人間国宝に認定されました。

 

そしてそれから7年後となる

 

1994年にこの世を去りました。

 

 

 

山本陶秀の交友と時代背景

 

 

戦前から戦後まで駆け抜けた山本陶秀は

 

著名人との交流も有名です。

 

特に陶芸家でもあり、書家や画家、

 

料理研究家としての顔を持つ北大路魯山人。

 

日系人としてアメリカや日本の文化を受け継ぎ

 

作品を発表していった彫刻家の

 

イサム・ノグチらと親交があるのは有名です。

 

 

しかし山本陶秀も

 

戦争に利用された被害者の一人でもありました。

 

「ろくろの陶秀」や「ろくろの名手」など

 

通り名が付くほど有名だった山本陶秀は

 

その技術を軍に見込まれ

 

陶器製の手りゅう弾を作らされたこともありました。

 

 

 

作品

 

 

山本陶秀の作品の特徴はやはり

 

「ろくろの陶秀」や「ろくろの名手」と言った

 

通称に隠されています。

 

謂れはろくろを作る技術も高い事ながら

 

繊細さも併せ持っている点です。

 

神業と呼ばれ

 

また他の追随を許さないとも言われています。

 

その為か素朴な雰囲気の作品が多い事で

 

知られている備前焼ですが

 

山本陶秀はまるで高位の人間のように誇り高く、

 

また色気もある作品を作りあげています。

 

 

代表作は備前急須です。

 

作品には三角形の「マ」の印が

 

付いていることもありますが

 

この印は山本陶秀の作品としては中期頃となります。

 

またその作品は備前焼として

 

初めて人間国宝に認定された、

 

金重陶陽の影響を受けていると言われています。

 

そして氏の温かな作風は海外からの評価も高く

 

スペイン国王と王妃へ花瓶を奉った事も有名です。

 

 

 

まとめ

 

 

山本陶秀は金重陶陽や藤原啓と共に

 

戦後の備前焼を支えた

 

『備前三人衆』と言われています。

 

中でも山本陶秀が理想としていたのは

 

「桃山備前」の通称のある安土・桃山時代の茶陶です。

 

80歳の時には

 

その技術は頂点を極めたと言われており

 

人間国宝に認定されたのもその翌年にあたります。

 

 

しかしそれでも山本は

 

備前焼に対して新しい視点を持ち続け

 

その遺伝子は同じ陶芸家の道に入った

 

息子の山本出に引き継がれる事となりました。

 

 

 

三輪壽雪(十一代三輪休雪)【人間国宝】

三輪壽雪(みわじゅせつ)

 

半世紀以上にも渡り

 

萩焼作りに精進してきた三輪壽雪。

 

ここではその作風やその背景について

 

紹介していきます。

 

 

来歴

 

三輪壽雪は19102月に

 

山口県萩市で三男として生まれます。

 

氏の家庭は元々代々が「休雪」の名を受け継ぐ

 

萩焼の窯元であり

 

兄の10代目休雪となる邦廣から、

 

萩焼について学びました。

 

 

しかし作風への影響は10代目休雪よりも

 

1941年に訪れた

 

三輪窯の川喜田半泥子の影響の方が目立ちます。

 

三輪壽雪は川喜田半泥子から茶陶を学ぶと同時に

 

その自由な作風に影響を受け

 

三輪窯の和風茶碗をベースに

 

鬼萩茶碗や割高台茶碗と言った

 

個性豊かな作品を作りあげていきました。

 

 

そして1967年に兄の邦廣から「休雪」の名を受け継ぎ

 

「休雪白」や「白萩手」など

 

萩焼に新風を吹かせた事が認められ

 

1983年、重要無形文化財として

 

人間国宝に認定されました。

 

 

 

三輪壽雪にまつわる背景

 

三輪壽雪は1955年には

 

雅号を休として作家活動をスタートしています。

 

それまで30年以上の間は

 

兄の手伝いを行いながらも修行に明け暮れ

 

戦時中の1944年に召集令が出た時を除くと

 

作陶の手を止めなかったと言われています。

 

47歳の時には

 

日本伝統工芸展に初出品した「組皿」が入選し

 

3年後には日本工芸会正会員になりました。

 

その頃になると兄の邦廣と比べられていますが

 

比べても遜色ないくらいに力があると言われ

 

また自由な作風も大きな評判を得ています。

 

茶陶の世界は常識に囚われすぎていて

 

新しい物が生まれずらい所もありますが

 

川喜田半泥子によって

 

自由な発想を確立させた氏の作品は

 

以上のような背景の中で

 

新たな茶陶として歓迎されました。

 

 

また兄弟揃っての人間国宝への認定は前例がなく

 

それも大きなニュースとなって

 

陶磁器界に大きな衝撃を与えました。

 

 

 

作品

 

三輪壽雪の作品の特徴は

 

兄らと共同で研究した「休雪白」にあたります。

 

藁灰釉によってまるで白い砂糖とも称される白釉を

 

厚く塗った作風は

 

これまでの古萩にはなかったものでした。

 

また休雪白の技術を発展させた「白萩手」。

 

鉄分を多く含めた「紅萩手」。

 

化粧掛けの泥漿を使った「荒ひび手」なども用い、

 

自由で大胆な作品世界を表現しています。

 

 

 

まとめ

 

三輪壽雪は2012年の12月に亡くなります。

 

102歳と長命で、1955年に

 

作家として活動を始めた事を考えると

 

57年ほどの月日が流れていた事になります。

 

半世紀以上も萩焼作りに精進してきた三輪壽雪ですが

 

それでも自身の事を不器用と称していました。

 

 

しかし三輪壽雪自身の工房には三輪神社のご神符があり

 

制作の前にはいつも拝んでいたなど

 

「不器用」と称する裏には

 

作品作りに対する真摯な気持ちが

 

隠されているのではないしょうか。

 

 

 

三輪休和(第十代三輪休雪)【人間国宝】

三輪休和(みわきゅうわ)

 

三輪休和は苦難の時代に研究を続け、

 

人間国宝となりました。

 

ここではその作品の特徴を織り交ぜながら、

 

三輪休和(第十代三輪休雪)についてご紹介します。

 

 

来歴

 

三輪休和は18954月に

 

山口県萩市で次男として生まれました。

 

氏の家庭は代々が「休雪」の名を受け継ぐ

 

萩焼の窯元であり、三輪休和の本名は邦廣です。

 

幼少期から、祖父であり8代目にあたる

 

三輪雪山の作陶を学び、

 

1910年には萩中学校を中退し、家業を継ぎました。

 

 

三輪休和にとって最初の代表作と言えるのが

 

1923年に作った、当時の山口県知事に

 

奉るために作った郭子儀置物です。

 

以後も山口県知事に奉る為の作品作りは続けました。

 

1927年には、10代目として三輪休雪を襲名。

 

75歳の頃には、萩焼の人間国宝として認定されました。

 

1967年には弟に当たる節夫に休雪の名を渡し、

 

三輪休和は隠居する形となり名を「休和」と改めます。

 

 

そして1981年に

 

老衰のため86才でこの世を去りました。

 

 

 

三輪休和の研究

 

 

三輪休和は研究熱心であり、

 

萩焼が出来た最初の頃を示す古萩についても

 

深く知識を得ていました。

 

またそれだけでなく

 

朝鮮半島で生まれた高麗茶碗の研究も

 

熱心に行っていた事でも知られています。

 

高麗茶碗の研究は襲名後に目立つようになりますが

 

その頃の日本は幕末維新の煽りを受け

 

不況状態に陥り、陶磁器家も廃業や転向をするのが

 

後を絶ちませんでした。

 

三輪休和はそう言った時代において

 

高麗茶碗の研究をするため、朝鮮半島に渡ります。

 

そして高麗・李朝の時代の他の器についても

 

熱心に勉強しました。

 

 

 

作品の特徴

 

三輪休和の作品の特徴として上げられるのが、

 

休雪白(きゅうせつじろ)です。

 

休雪白とは藁を燃やした灰を使った技術の事です。

 

藁から出た純白とも称される白釉を

 

萩焼に塗った事が大きな話題ともなりました。

 

ちなみに休雪白は弟の節夫と共に研究を重ねた末

 

完成させたものです。

 

 

また三輪休和の作品にみられる、

 

高麗茶碗に萩焼の技術を融合させた点は

 

作品の大きな特徴の1つとも言えます。

 

三輪の研究の成果が現れた一点です。

 

 

 

 

三輪休和は1970年、休雪白などが認められ

 

人間国宝として認定されました。

 

大正・昭和初期の苦難の時代の中で

 

敢えて朝鮮半島に渡って研究をした事は、

 

当時非難の声が上がっていたことでしょう。

 

それでも人間国宝に認定されるようにまでなったのは

 

氏の努力の賜物以外何物でもありません。

 

 

 

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