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骨董品・美術品というと何のことか分からず、「ガラクタ」と考えて処分しようとしていませんか?その眠っている品物に思わぬ価値がある場合があります。まずはご相談ください。

伝統こけし~肘折系~その歴史と特徴

土産物として人気が定着している工芸品の伝統こけし。

 

作られているのは東北地方の6県だけです。

 

古くから湯治場として栄えてきた温泉地を拠点にして、こけし工人がその土地ごとのこけしの個性的な様式を発展させて確立し、その伝統を現代まで守ってきました。

 

10系統あると言われる伝統こけしの中で、今回は「肘折系こけし」の歴史と特徴についてお伝えします。

 

肘折こけしのふるさと肘折温泉

肘折温泉は出羽三山のうちの月山の麓、山形県大蔵村にある古くからの湯治場です。開湯は807年という記録があります。

 

「肘折」という名称の由来には、老僧が肘を骨折した際に、当地の上の湯に浸かってみると、すぐに傷が癒えたという説を主流として諸説あります。

 

肘折系こけしの祖

肘折こけしの開祖は初代 柿崎伝蔵という、肘折の木地師です。

元の名を八鍬酉蔵(とりぞう)と言いました。

 

文政8年(1825年)に山形県大蔵村肘折で誕生。12歳の頃、天保の大飢饉の折に隣の柿崎伝蔵の一家が離村して空き家となったため、村の相談によって家督と姓名を継ぎました。

 

結婚後に宮城の鳴子で木地師として修業し、肘折に戻ったのち、明治10年頃に開業したと言われています。

 

肘折系こけしの確立~2つの系統を内包~

山形県村山の井上藤五郎は明治13年に柿崎伝蔵の弟子になリました。

 

伝蔵の元で学んだのち、明治20年に宮城の遠刈田(とおがった)に赴き、ろくろ師、こけし工人の佐藤周治郎に就きます。

 

そこで新しい足踏みろくろを使った加工技術を学んだのち、肘折の伝蔵の元に戻り、伝蔵と共に従来の肘折こけしらしさに遠刈田の様式を融合させて、肘折系こけし様式の主流を完成させました。

 

そしてその流れとは別にもう一つ、遠刈田から肘折に移り住んだこけし工人の佐藤周助の作品が端緒となったこけしも「肘折こけし」と呼ばれています。

 

この2つの系統を総称して「肘折系こけし」と呼ばれています。

 

肘折系こけしの特徴

肘折系のこけしの様式は、120年以上前から忠実に継承され続けています。

 

形状は鳴子系と言われています。

 

胴部は太めの円柱形、肩には段が入っています。

 

頭部と胴部は分離しているものを精巧な技術によって嵌め合わせているので、まるで一体のように見えます。

 

大型の物は子供客を意識して、頭部をくり抜き内部に空洞を作った上で、中に小豆を入れて振ると音が鳴るようにできています。

 

描彩は遠刈田系と言われています。

 

服の地色は黄色で、模様は撫子や重ね菊などの草花模様です。

 

頭には髪とともに放射状に広がる手絡が塗られています。

 

肘折系こけしを伝えてきて

原型を丹念に今に伝える肘折系こけしに興味が湧きましたら、ぜひお店にお立ち寄りになることをお薦めします。

 

 

須田珙中~福島県の日本画家

須田珙中とは

 

須田珙中は戦後を代表する日本画家の一人です。

 

本名は善二といい1908年(明治41年)福島県須賀川市の雑貨商の三男として生まれました。当時の須賀川市は奥州街道の宿場町として栄え多くの商人が出入りしていた町でした。

 

珙中は町の商業学校を出た後、隣町の中学校に編入、その頃より画家の道を志し、東京美術学校本科日本画科(現東京藝術大学)に入学しました。

 

東京美術学校在学中に松岡映丘に師事し、帝展などへの入選を果たしました。

 

当時のエピソードとして聖徳太子奉讃展に出品し入選を果たすが「在学中、許可なく官展への出品を禁ず」という校則に触れ停学になったという談話が残されています。

 

珙中は卒業後、杉山寧、山本岳人、高山辰雄、といった松岡映丘の門下生で作る瑠爽画社に参画し、それまでの日本画とは全く違った新しい現代感覚の日本画を目指します。

 

松岡映丘の没後は前田青邨に師事し、文展から院展に移ります。

 

昭和二十五年頃より母校である東京美術学校で教諭として学生達を指導していきます。

 

その中で珙中自身も大いに刺激を受け作風も変化し目覚ましい活躍を遂げていきます。

 

次々と作品を発表し「大観賞」や「白寿賞」などを受賞しています。

 

長い院展の歴史の中でも「大観賞」を四度受賞した作家は他にはおりません。

 

41回展「山水石組」、42回展「念持仏」、44回展「篝火」、45回展「正倉院」などの実績からもわかる通り、須田珙中は近代日本画の中で大きな功績を残していきます。

 

また晩年にかけても多くの作品を残します。

 

代表として水戸偕楽園の好文亭の襖絵があります。

好文亭は十室あり、八十二面の襖絵があります。珙中は松の間、梅の間、萩の間、紅葉の間の襖絵を担当します。しかし珙中は完成を見届けることなく昭和39年心筋梗塞のため五十七歳の若さでこの世を去ってしまいます。

 

 

相馬焼~福島県の骨董品

相馬焼とは

 

「相馬焼」は現在、生産地である「大堀」を用いた「大堀相馬焼」と中村城下エリアで焼かれる「相馬駒焼」があります。

 

福島県双葉郡浪江町大堀一円で生産される焼き物の総称を「大堀相馬焼」と呼び益子焼や笠間焼のルーツとされています。

 

起源は元禄時代、福島県の浜通り北部を治めていた相馬中村藩の藩士である半谷休閑が大堀(浪江町)において焼き物に適した陶土を発見し、召し抱えていた「左馬」というものに日用使いの陶器を焼き始めたのが起源と言われています。

 

この陶器類の出来は非常に良く中村藩の藩主である相馬氏に献上品として進呈されていました。

 

この陶器を評した藩主相馬氏はこれを藩の特産として行うことを決め「瀬戸物氏、他領江不可出来」を布令し職人の他藩への出入りを禁じ、資金の供給、原材料の確保など藩として後押しし藩内の広い地域に窯元をつくっていくのでした。

 

江戸時代末期には大小100を越える窯元ができ、農業の兼業として窯をもつ者など民窯としても広く親しまれる物となっていきました。

 

1830年頃「半谷滝三郎」氏が絵付けの研究を始め、この頃から相馬焼に駒絵が施された物が出てくる様になりました。この地域の藩である中村藩は「相馬野馬追」の伝統を有し、藩主である相馬氏の家紋には馬が持ち入れられている為、縁起物として広く親しまれていきました。

 

馬の絵の特徴は左の方角を向いており「左馬」といい、相馬藩の御神馬であり、「右に出るものがない」という意味で縁起がいいとされています。

 

相馬焼の特徴として「ひび割れ」の模様があります。これは「青ひび」といわれ器全体に広がり地模様となっています。

 

また、1900年頃には「二重焼き」という工法が生み出されます。これは器の胴の部分が二重構造になっており熱い飲み物がさめにくく、また器も熱くならないという画期的なものでありました。

 

戦後の復興期には、日本に留まらず海外でも高い評価を受け、「ダブルカップ」の愛称でよばれ、販路を広げていきます。

 

1978年には国に「伝統的工芸品」に認定されその価値をみとめられました。

 

しかし、2011年には東日本大震災の影響で産地である浪江町は「帰宅困難地域」として立ち入ることができなり、現在は県内(一部県外)の各地域に少数ではありますが窯が再建され現在に至っています。

 

 

会津本郷焼~福島県の骨董品

会津本郷焼とは

 

会津本郷焼の起源は室町時代まで遡ります。

 

当時尾張や美濃の地域は絶えず戦が行われておりその地で窯をかまえていた職人は集中して焼きものができる土地をさがしていました。

 

全国津々浦々に離散していった職人の中には東北地方を目指していた者達もありました。

 

その中の瀬戸地上出身の水野源左衛門、長兵衛という職人がいました。

 

二人は福島県の長沼町(現在の須賀川市)において故郷瀬戸地方の粘土に大変近い良質の原料があるということに辿り着き、地に留まり窯を構える様になります。

 

そこ頃会津の藩主「蒲生氏郷」は会津鶴ヶ城の改築に取りかかり、天守閣をはじめとした瓦の制作を藩内である長沼で焼きものをはじめた水野源左衛門に命じ会津で瓦を焼かせたことが起源であります。

 

会津は名のしれた豪雪地帯であり、冬は相当冷え込み「凍み割れ」といって寒さで瓦が割れてしまう有様でした。しかし源左衛門の焼く瓦は「凍み割れ」をしない瓦を試行錯誤の上完成させ、その功績を讃え、長兵衛に「瀬戸右衛門」という称号を与えました。

 

また保科正之が藩主の時代には茶道が盛んになり、水野源左衛門に茶会を焼かせたことにより陶器が根付いていくこととなります。

 

会津本郷焼で欠かせないもう一つに磁器もあります。

 

こちらは1800年前後に会津の良質な原土を使い、江戸から職人を呼び寄せて制作にあたらせますが、上手くいきませんでした。

 

会津の職人であった「佐藤伊兵衛」は当時各窯の技術が門外不出の機密情報であった時代に「有田」の窯元に潜入しその技術を体得するのであります。

 

佐藤伊兵衛の帰国により技術を得た会津藩は備前皿山を元にした窯をつくり、ついに磁器の制作ができることになります。

 

その後会津地方は戊辰戦争において激戦が繰り広げられ、町は戦火につつまれます。

 

その後も大正の大火などもあり、その都度窯元は何とか生き伸び民藝運動による再評価なども受けながら現代へと続いています。

立原翠軒・立原杏所・春沙

江戸末期の芸術に影響を与えた「華麗なる親子3代」

 

立原翠軒、その息子である立原杏所と孫娘の春沙は、江戸時代後期に水戸藩の芸術や人文文化の発展に影響を与えた「華麗なる親子3代」です。

 

立原翠軒は、江戸中期から後期にかけて活躍した儒学者です。水戸藩にある「彰考館」総裁として18年勤務し、「大日本史編纂」事業に貢献しました。また、翠軒は篆刻や書画の才能もあり、「西山遺聞」や「海防集説」等の著書もあります。

 

翠軒の息子である立原杏所は生まれつき絵の才能に恵まれておりましたが、江戸時代の中期から後期にかけて水戸藩の7代藩主である徳川治紀、8代藩主斉脩、9代藩主斉昭に水戸藩士として使えながら、書家、中国の南宋画の影響を受けた人文画家(南画家)、篆刻家として、様々な芸術活動も同時に行っていました。

 

東京国立博物館にある「葡萄図」は、杏所の作品の一つです。また、母親が亡くなられた後の杏所の作品の中には、二羽の鶯と薔薇と梅が描かれた「梅花長春図」があります。この作品を鑑賞する際、描かれている「二羽の鶯」が父親である立原翠軒と息子である杏所と想像しながら鑑賞すると、薔薇や梅が咲きほこる良い季節中で母親を亡くした杏所の悲壮感が感じられるのではないでしょうか。

 

立原翠軒の孫娘であり、立原杏所の長女である立原春沙は、父親である杏所の盟友、渡辺崋山一門十哲の一人として、10代の後半からはすでに画家として活躍をしていました。春沙の作品の中には、将軍御台所より称賛された江戸城大奥の花鳥図襖絵や花卉図がります。これらの作品は、彼女の繊細さが表れていたと伝えられています。春沙は画家として活躍した後、加賀藩の13代藩主である前田斉泰の正室である溶姫の侍女として、17年間にわたり加賀藩に仕えたと言われています。

 

また、幕末の歴史に名を遺した立原杏所の子供は長女の春沙だけでなく、9代藩主斉昭の側室になった次女の夏子、天狗党の説得に尽力して水戸城で戦死した三男の朴次郎、北辰一刀流創始者である千葉周作の三男の妻となった六女の稲子たちもいました。

 

春沙は、東京都文京区向ヶ丘2丁目の(本馬込の)菩提寺である海蔵寺にあるお墓に祖父の立原翠軒と祖母の塩と一緒に埋葬されていますが、平成6年には茨城県水戸市六段田にある立原家一族の菩提寺、六地蔵寺の墓にも埋葬されました。

 

立原翠軒、その息子である立原杏所と孫娘の春沙は、江戸時代後期の歴史的激動期に水戸藩士や加賀藩の侍女として政治の支配下に忠勤しながら、日本の文人文化や芸術にも素晴らしい影響を与えた「華麗なる親子3代」です。

 

 

伝統こけし~木地山系~その歴史と特徴

「木地山系」と呼ばれる秋田県の「こけし」が伝統工芸品の中で「逸品」という評判の一角を占めています。秋田産ならではの素朴のうちに気品も漂うこけしです。ここではこの「木地山系こけし」の由来と特徴をお伝えします。

 

こけし職人の起源とは

こけしを作る手工職人は木地師(きじし)から派生したというのが定説です。木地師とは、山に入ってケヤキやトチ、ブナなど、木材を切り出して加工し、木地(きじ)、つまり何も塗らない生地のままの木材で、お椀やお盆などの木製品を作る木工職人のことです。轆轤(ろくろ)を使うので、ろくろ師と呼ばれることもあります。

 

木地師の起源は9世紀、平安時代に生きた「悲劇の皇子」、惟喬親王(これたかしんのう)の活動であると言われています。惟喬親王がろくろ技術を日本で普及させたからです。そして彼は「木地師の祖」と称されるようになりました。

 

木地師について

木地師の発祥の地は旧名、近江の滋賀県です。詳しくは滋賀県愛知郡小椋村、現代の滋賀県東近江市の一部であると言われています。木地師は日本中の山々を渡り歩きながら、ろくろ技術を使って木工品を作るのをなりわいとしていました。

 

やがてほぼ全国に散らばって各地で定住するように。今でもその地には名残があります。木地山、木地畑などの地名や、小椋、筒井、小倉の姓が残っているのです。

 

木地山系こけし作りの始まり

木地師が作る元々の木工品の種類は盆や椀などの調度品でした。木地師たちの中で東北地方の温泉地にやって来た人たちは、江戸時代の文化文政の頃に人々の温泉利用が広まるうちに、その温泉地を拠点にしながら温泉保養客を目当てに木地玩具を作って売り物にして出すようになりました。これが木地山系こけし作りの始まりと言われています。

 

「木地山系こけし」を短く紹介すると

「木地山系こけし」とは秋田県のこけしのことです。かつての秋田県雄勝郡皆瀬村、今の湯沢市の一部の木地山で小椋氏を中心として作られてきました。使う木材の種類は桜やミヤギミズキ、イタヤカエデなどです。

 

木地山系こけしの特徴

 

木地山系こけしの外観の特徴は、下の通りです。
・頭はらっきょう型、胴はずんぐり型
・頭と胴が一体になっている
・菊や梅花や縦縞模様の前垂れ姿
・髪は前髪とびんだけ、又はおかっぱ
・赤い髪飾りが前髪に付いている

 

全身から受ける印象の代表は「素朴」です。木地山系こけしは腰に前垂れを掛けているのが大きな特徴なので「前垂れこけし」という通称もあります。この前垂れの模様は、初めは菊の花の簡単な紋様だけでした。

 

木地山系こけしの魅力を伝えてきて

魅力があって、静かな人気の続く「木地山系こけし」。機会がありましたら、どうぞご覧になってください。表情も1体ずつ個性がありますので、顔を見比べるだけでも楽しめますよ。

 

小椋久太郎氏は「現代の名工」と言われ、ずんぐりした胴、作り付けの首、前垂れに梅の花模様をあしらった「木地山こけし」は素朴ながら気品を備えています。

 

 

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