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人気!「ブリキ」製おもちゃの歴史

人気!「ブリキ」製おもちゃの歴史と概要について

コレクターズアイテムとして高い人気を持つブリキのおもちゃ。
最近ではマニアでなくとも部屋のオブジェとして飾られたり、美術のモチーフにされたりするなどその魅力は多くの人の心をとらえています。

 

ブリキは、錫(すず)をメッキした鋼板で、加工しやすく錆などの腐食を防ぐようにした素材で、玩具として丈夫で耐久性にも優れています。
日本でブリキのおもちゃが登場したのは明治で、当初は外国の模倣に過ぎませんでした。しかし、次第に日本独自の優れたおもちゃが開発されます。第一次世界大戦まではドイツがブリキおもちゃの世界一の生産量を誇っていたが、ドイツが敗戦したため、欧米を中心に当時の新興国である日本へ世界からの注文が殺到し、ブリキのおもちゃは日本を代表する輸出品となっていきました。その後、日本も戦時中は、ブリキのおもちゃの製造やアメリカへの輸出が禁止され、製造は停滞したが戦後になり、日本の玩具メーカーは、米軍の残した空き缶を再利用するなどして、ブリキおもちゃの製造を再開しました。
全盛期は戦後1950年代から1960年代で、この当時に製作されたブリキのおもちゃは日本人らしい丁寧な造作と形状のユニークさ、可愛らしさなどで世界的に評価が高く、稀少価値の高いものや保存状態の良いものは高価な値段で取引されています。

 

主なメーカーはヨネザワやブルマァク、野村トーイ、マスダヤ(増田屋)などで、ロボットや人物、乗り物などの郷愁をそそるデザインや造形には現在でも根強いファンがいます。

 

日本は高度成長期に入ると、人件費の高騰や素材として安価なプラスチックの主流化や技術的に進歩したダイキャスト(合金鋳型)に移行し、徐々にブリキのおもちゃの製造が減少しました。しかし、現在でもビリケン商会などが高品質のブリキのおもちゃを製造しており、ブリキおもちゃ文化を継承しています。
戦後直後の日本のデザイン文化を今に伝え、現在では見ることのできない愛らしさや味わいを感じさせる貴重なアイテムとして、ブリキのおもちゃは高い評価を受けています。

 

日本国内ではブリキの板をロボットや自動車・電車・船舶・航空機など乗り物のような形に成形・塗装した玩具を「ブリキのおもちゃ」と呼び、大きく分けるとゼンマイ式と乾電池で動くタイプがあります。
乾電池で動くタイプのブリキのおもちゃの価値はまずきちんと動くかが重要です。この状態の次は、稀少性。そして最後は需要となります。年代はあまり価値に関係がありません。
他にもクロスオーバーと呼ばれるものがあり、例えばサンタのバッテリー貯金箱などは、サンタコレクター、バッテリー・トイコレクター、貯金箱コレクターの3分野から需要がありその価値は上がります。

「超合金」玩具(おもちゃ)の歴史

「超合金」玩具(おもちゃ)の歴史と概要

1974年発売の大ヒット商品「超合金 マジンガーZ」からスタートしたダイキャストを使用した玩具シリーズ。

1970年代に少年期を過ごした世代にとって、もっとも思い入れの強い玩具が「超合金」であり、ダイキャストを含む複合素材による重量感・光沢・存在感に加え、発射・合体・変形などキャラクターに応じたギミックを搭載。そのコンセプト・デザイン・アクション性は「超合金」というトイカテゴリーを生んだ、玩具のパイオニアシリーズです。

 

その記念すべき初号機が、1974年に発売されたロボットアニメの金字塔「マジンガーZ」でした。当時の少年たちは、合金トイのリアルさや重さに圧倒されると同時に、スイッチを押すとロケットパンチが発射できるギミックにも酔いしれた。第1期に発売されたマジンガーZには、劇中の設定にはない胸部ミサイルも搭載されていたが、こちらをブレストファイヤー代わりに使い、手遊びする楽しみを広げていきました。
その後は短期間で造形やギミックをブラッシュアップし、グレンダイザーやライディーンといった時代を象徴するロボットをリリース。1976年にガイキングで初の変形・合体を実現すると、それからは破竹の勢いで進化を遂げて行きます。  合金トイ時代を創造したビッグブランドだけに、ノスタルジーをともなう当時物の価値は高く、初代マジンガーZの美品には高値がつけられています。  破格をものともせずに収集するコレクターが多数いることも超合金の実力の証でしょう。

 

初の超合金ロボットとして誕生したマジンガーZですが、新商品が販売されるなど非常にコアなファンを獲得しており、昔は遊ぶ目的で使用されていたが、コレクションとして集めるといった人も多く存在し、少しサイズが小さいものも販売されています。
マジンガーZの超合金シリーズは、非常に多く存在し、最初は従来のロボット玩具の概念を壊す勢いで、重量感を感じさせるようなロボットを作るということを目的に作られました。そこから初の超合金ロボットが作られ、かなり重量感のあるものとなりました。しかし、重さ故の欠点があり、子供が遊ぶことができなくなり、少し重量感をなくし子供でも遊べるようなロボットに生まれ変わりました。
ミニサイズから、大人が持っても十分な大きさのビックサイズのマジンガーZが存在しており、40周年では特別なスタイルのマジンガーZが販売されました。
超合金は、他にも存在しますがマジンガーZはリアルさを追求しており、作中に出てくるリボルバーや装甲品の数々を細部まで再現されており、普通の超合金ロボットとはひと味違います。
リアルタイムでマジンガーZを見ていた人にはたまらない仕上がりになっています。

「リカちゃん人形」の歴史と希少価値

「リカちゃん人形」の歴史と希少価値について

リカちゃん人形は、日本の事情に見合った大きさのドールハウスと、それに合ったサイズの独自の着せ替え人形としてタカラ(現・タカラトミー)が企画・開発をし、1967年の7月4日に1体600円で発売が開始されました。人形だけでなく、リカちゃんを運びそこで遊ぶことも出来る「ドリームハウス」(980円)も同時に発売されました。

 

リカちゃん人形の企画にあたっては、日本の女の子たちにより身近に感じられるようなファッションドールというテーマが掲げられ、小学5年生という設定と小さな女の子の手の平に収まる身長21cmという大きさで作られており、アメリカのバービー(マテル社)やタミーちゃん(アイデル社)と比べると小さめに作られています。
また、当時流行していた少女漫画のヒロインのような顔立ちが採用され、「リカちゃん」という名前は月刊少女漫画雑誌「りぼん」の1967年7月号誌上の一般公募で決定されたことになっていますが、実際には発表号をずらして読者ではなくタカラ側が命名し、日本人でも外国人でも通用する名前をということで「リカちゃん」となりました。
現在でも日本の着せ替え人形の代表として人気のある人形です。

 

リカちゃん人形は発売されてから現在まで、何度かモデルチェンジを行い、限定品も発売されてきました。
1967年に発売されたリカちゃんは爆発的人気となり、1972年に2代目、1982年には髪の色が明るい茶色や金髪も誕生の3代目とリニューアルされながら発売され、1987年に身長も高く、スタイルの良い4代目が発売されました。1992年にはピンキーピンクリカちゃんが発売され、5代目と呼ぶこともありますが、あまり売れず1年で販売終了したため、現在のバージョンは人気のある4代目が発売され続けています。
コレクターの間では初期の頃に作られたリカちゃん人形の人気は高く、保存状態にもよりますが、初代リカちゃん人形は、発売時から約1年間は腰部にジョイントが無く、お腹におへそのあるボディであったため稀少価値が高く、高値がつけられています。
また、マクドナルド・ミスタードーナツ・サンリオなど子供が好む飲食店やキャラクターとタイアップしたリカちゃんも販売されており、こちらの人形も高値が期待できるリカちゃん人形となっております。

 

リカちゃん人形の洋服や小物類については、初出荷の時に付属品としてついていたアイテムなどはそれだけでも十分価値があります。

明治三十七八年従軍記章・・・戦前の日本の勲章

明治三十七八年従軍

明治三十七八年従軍記章(日露戦争従軍記章)

この記章は日露戦争(明治三十七年二月~明治三十八年九月)に従軍したことを表章するため、明治三十九年三月の明治三十七八年従軍記章条例、同年四月の明治三十七八年従軍記章の奏請及授与の手続準拠法、同年五月の明治三十七八年従軍記章授与調査手続によって制定されたものです。

 

1904年(明治37年2月8日)から1905年(明治38年9月5日)にかけて、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と日本海を主戦場として発生した戦争いわゆる「日露戦争」(「明治三十七八年従軍」とは「日露戦争」の別称です)がおこなわれました。 両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和しました。

デザインは銅製で表には菊花御紋章と軍旗・軍艦旗、桐葉紋章の意匠となっており、裏面は月桂樹と戦捷草、中央の楯に「明治三十七八年戦役」と入っている。

昭和六年乃至九年従軍記章・・・戦前の日本の勲章

昭和六年九年事変
昭和六年乃至九年従軍記章(満州事変従軍記章)

1931年(昭和6年)9月18日夜、奉天(瀋陽)郊外の柳条湖の南満州鉄道線路で爆薬が爆発。関東軍は、これを中国軍によるものとして軍事行動を開始し満州事変が始まりました。翌年、1932年(昭和7年)1月28日から3月3日にかけて上海共同租界周辺で日華両軍の衝突(上海事変)もありました。

 

この両事変に従軍した者に、昭和六年乃至九年事変(満洲事変・上海事変)記念の表章として、昭和9年7月23日、「昭和六年乃至九年事変従軍記章令」(勅令第225号)によって制定されました。

俗に「満洲事変従軍記章」とも呼ばれています。

 

青銅製で、菊花御紋章の下に金鵄が配され、裏側には、陸海軍の鉄帽が配され、その下に「昭和六年乃至九年事変」の文字が浮き彫りにされている。また、記念品として盾も贈られていた。

大正大禮章・・・戦前の日本の勲章

大正大礼

大正大禮章(大正大礼章)とは

この賞は1915年(大正4年)11月に挙行された即位の大礼や大嘗祭など、大礼に参列・要務に携わったことを表章するための記念章です。

 

皇室典範・登極令制定後、初めてとなった大正天皇即位の礼は、1915年(大正4年)11月10日に京都御所紫宸殿で行われました。 本来は1914年(大正3年)に挙行される予定でしたが、同年4月に昭憲皇太后の崩御により1年延期されました。 明治天皇の即位時には新調できなかった高御座等が新調されました。また、この時から高御座の隣に皇后の御座である御帳台(これは江戸時代以前の帳台と異なり、高御座に準拠して考案された新儀である)が設けられましたが、貞明皇后は親王(澄宮崇仁親王)を懐妊中であったため欠席しようです。

材質は銀で、金の菊花御紋章、左に橘、右に桜の枝と万歳幟がデザインされ、裏には「大禮記念章 大正四年十一月」と入っています。

昭和大禮章・・・戦前の日本の勲章

昭和大礼

 

昭和大禮章(昭和大礼章)とは

1928年(昭和3年)に執り行われた即位の大礼や大嘗祭など、式典の要務に携わったり参列したことを表章するための記念章。 この記念章には男性用、女性用があります。

 

1928年11月6日、昭和天皇は即位の礼を執り行う為、宮城を出発し京都御所へ向かいました。京都へ向かう天皇の行列は2名の陸軍大尉を先頭に賢所の神鏡を奉安した御羽車、昭和天皇の乗る6頭立て馬車・皇后の乗る4頭立て馬車・皇族代表・内大臣(牧野伸顕)・内閣総理大臣(田中義一)の馬車と続き、全長600メートルにも及ぶこの行列は、1分間に進む速度が86メートルと決められていたそうです。 11月10日、即位の礼当日の参列者は勲一等以上の者665名、外国使節92名ほか、2,000名以上の参列者があり、式典では内閣総理大臣・田中義一が万歳三唱しました。天皇陛下は紫宸殿の儀を終えた後、11月21日に伊勢神宮を親拝し、即位の大礼に係る一連の儀式を終えた旨、奉告し帰京しました。 帰京後は宮中晩餐会、夜会などの祝宴の他、観兵式・観艦式等が執り行われました。
素材は銀で、表には高御座に金の菊花御紋章、「萬歳」の文字が入り、円周縁に桜橘文様、裏は菊花様の縁、中央に旗形、その中に「大禮記念章 昭和三年十一月」と入っています。

支那事変従軍記章・・・戦前の日本勲章

支那事変

支那事変従軍記章とは

昭和14年7月27日、「支那事変従軍記章令」(勅令第496号)によって制定されたものです。軍功の如何や階級に関係なく、また軍人及び軍属に限らず要件を満たせば文民や民間人にも広く授与された勲章です。 おそらく日本国内で最多授与の勲章だと思います。

 

1937年(昭和12年)から始まった日本と中華民国の間で行われた長期間かつ大規模な戦闘で、「支那事変」という呼称は、当時の日本政府が定めた公称です。 現在では太平洋戦争(大東亜戦争)勃発後も含めて日中戦争とも呼ばれています。
この勲章は日中戦争に従軍した者へ授与され、青銅製で菊花御紋章の下に金鵄と陸海軍旗が配され、裏側には大陸の山河と「支那事変」の文字が浮き彫りにされています。 デザインは日名子実三で、氏は現在の日本サッカー協会シンボルマークで使われている八咫烏(やたがらす)をデザインしたことでも知られています。

戦捷記章・・・戦前の日本の勲章

戦傷記章

戦捷記章とは

大正3年8月23日~大正9年1月9日の間に、戦役に関係する軍務に従事し、顕著な功績を挙げた戦闘員に授与されたものです。従軍記章ではなく記念章です。

 

戦捷記章は連合国勝利記念の国際表章として、大正9年9月の戦捷記章令によって制定されました。 表には武甍槌神像(タカミカヅチシンゾウ)を表し、裏は桜花と地球の図と日本、合衆国、連合王国、フランス、イタリアの各国旗の図、および「文明擁護之大戦 同盟及聯合國 自大正三年 至大正九年」と入ります。 この記章の特徴は、第一次世界大戦に参加した全ての連合国が、同じ模様の綬を使用している。そのため、記章自体の意匠は各国によって異なり、綬を見れば「戦捷記章」であることがわかるようになっていことです。

満州国皇帝訪日記念章・・・戦前の日本の勲章

満州国皇帝陛下

満州国皇帝訪日記念章とは

康徳2年(1935年)満洲国皇帝(愛新覚羅溥儀)が訪日した際、関係者に授与された勲章です。

 

昭和天皇の招待による日本公式訪問で、昭和天皇自らが東京駅まで溥儀を迎えに行ったとも言われほどの歓迎ムードの中、東京駅前は大きな奉祝門もつくられました。 満洲国皇帝(愛新覚羅溥儀)は、康徳2年(昭和10年)4月6日から25日の間、日本に滞在しました。 その際の御召艦は「戦艦比叡」、航路は大連⇒横浜、帰りは横浜⇒大連でした。 「御召艦」とは皇族、天皇が座乗する艦で、地方へ出かける際の移動など皇室行事に活用されていた軍艦です。 この御召艦は大正末期から昭和初期にかけて比叡がこれを多く勤めていました。
製造は大日本帝國造幣局製です。

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