お電話にてお問い合わせくださいますようお願い申し上げます。
住所 |
〒790-0951 愛媛県松山市天山1丁目13-5 イオンスタイル松山3階 |
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アクセス | 伊予鉄道横河原線 いよ立花駅より徒歩7分 |
電話 | 089-950-4334 |
営業時間 | 10:00~19:00 |
定休日 | なし |
駐車場 | あり/無料 1,140台 |
許可証 | 愛媛県公安委員会 第821070003347号 |
その他の情報 | その他の情報は、特定商法に基づく表記をご覧ください。 |
愛媛県松山市に「美術品・骨董品の買取専門店KURAYA松山店」が2020年7月25日(土)NEWオープン。
くらやにとって四国初出店となります。愛媛県松山市の城南方面、天山交差点側のイオンスタイル松山3階にくらや松山店はあります。店内エレベーターを降りてすぐの場所に店舗がございますので、商品を持ち込みの際にも大変便利な立地となっております。
愛媛県では、金やプラチナ、ブランド品の買取をしているお店は多数ありますが、美術品・骨董品の価値をしっかりと見極めて鑑定・査定ができるお店はほとんどありませんでした。くらや松山店では貴金属・ジュエリーはもちろん、今まで売り先がなかったり処分に困っていた美術品・骨董品を専門の鑑定士がしっかりと鑑定・査定いたします。
ひとことで、美術品・骨董品といってもジャンルは多岐にわたります。古伊万里など陶磁器の皿や壺、浮世絵、鎧・日本刀などの武具、掛け軸、書道具や茶道具などのお道具、百貨店で購入した作家ものの絵画や工芸作品全般、1970年代・80年代の美術品、明治・大正・昭和時代の人形やおもちゃなどの昭和レトロ、江戸時代から戦前まで流通していた小判・旧金貨・一分銀などの古銭、地方自治などの記念貨幣、明朝・清朝・中華民国時代の中国美術作品等々、時代物の商品から近代作家のものまでここでは紹介しきれない商品を取り扱っております。さらには、ダイヤモンド等のジュエリー、サファイアやエメラルドなどの宝石、珊瑚・翡翠・琥珀製品も専門鑑定士がしっかりと査定いたします。
今後の日本においては、高齢化社会が進み、「終活」、「生前整理」、「遺品整理」の需要がますます増えてきています。思い出の詰まった商品の数々、故人の残された収集商品の品々を整理する機会が必ずやってくると思います。骨董品・美術品・コレクションを整理するには、価値を見極める鑑定士の存在が必要です。くらや松山店ではしっかりとした鑑定・査定で価値ある古物、商品を見極めることにより、そういった需要のお手伝いをさせて頂ければと思っています。
くらや松山店では店頭での査定相談から、出張での鑑定・査定も行っております。ショッピングセンター内という立地の関係上、大きな商品を持ち込む際は大変かと思います。商品の画像を撮ってきていただき、店頭での相談後に出張査定も可能ですのでお気軽にご相談ください。
買取品目
買取実績
準備中になります。
絵画には「タトウ箱」や「黄袋」が付属していることがあります。また人気作家の作品では発売時に作品証明書が発行されていることがあります。購入時の付属品が一緒にあることで査定金額UPにつながります。 掛軸の場合、近現代の作家のものだと「共箱」に収まっている方が査定が高くなります。江戸時代の古画ではこの共箱がありませんが、代々家に伝わってきたものだと古い伝世の箱やお蔵の中で大事にされてきたものだと蔵番札が付いていることがあります。いづれも時代考証の役に立つものなので一緒にお持ち下さる方が良いと思います。 勿論、絵画や掛け軸では真贋が最も重要なポイントですが、古いものはではその様子もまた重要なポイントになります。 ※「タトウ箱」とは額縁などを収める箱で、作者や画廊のシール等貼られているものもあります。 ※「共箱」とは作家自身でその木箱に署名(箱書き)したものを指します。
一緒にお持ちいただけるとで査定額のアップが期待できるもの。
★箱
★作品証明書
茶道具、煎茶道具では箱に収まっているものは必ず箱と一緒にお持ちください。例えばお茶碗だと本体・共箱(その作品のための専用の木箱)・共布が揃っています。これは茶碗本体に作家の印(陶印)があり、箱には作家のサインと印があり、近年の工芸作家のものだと茶碗を包む布にも押印されています。 また書付のあるお道具は二重箱になっているものがあります。書付とは茶道の家元や高僧が作品の名前を書き記したもので「書付箱」といわれます。書付箱は茶碗・水指・棗・香合・茶杓や掛物などあらゆるお道具に存在します。
一緒にお持ちいただけるとで査定額のアップが期待できるもの。
★共箱、共布
★書付箱、二重箱
★誂えの良い古布に包まれている場合はそのままご一緒に
宝石やジュエリーでは、ダイヤモンドのグレーディングレポートや鑑別書、ブランドのギャランティ等の証明書や箱などの付属品が揃っている方が査定額のアップが期待できます。 宝石やジュエリーにもハイブランドの製品があります。箱やブティックの販売証などがあれば一緒にお持ちいただくことで高評価となります。 また、時計は箱と保証書も一緒にあれば査定額がアップします。購入時の付属品としてベルトの余りコマや取扱説明書などもあれば査定額のアップが期待できます。
一緒にお持ちいただけるとで査定額のアップが期待できるもの。
★ダイヤモンド → グレーディングレポート
★ジュエリー → 鑑別書や鑑定書
★ブランドジュエリー → 箱や保証書、ブティックの販売証明書
★時計 → 箱、保証書、ベルトの余りコマ、取扱説明書などの付属品
日本刀で一番重要なものは「登録証(銃砲刀剣類登録証)」です。 刀と登録証は必ず合っているものです。複数お持ちの方で刀と登録証が混ざってしまいどれがどれか判らなくなった場合はご相談下さい。 また鑑定書がある場合は、必ずお持ちください。査定金額のUPが期待できます。 鑑定書には新旧2種類があります。旧タイプのものは「貴重刀剣」「特別貴重刀剣」「甲種特別貴重刀剣」があり、新タイプのものは「保存刀剣」「特別保存刀剣」「重要刀剣」などがあります。 稀に古い古文書のようなもので極めが書かれた折紙が付属している刀もあります。
必ず一緒にお持ちいただくもの。
★登録証(銃砲刀剣類登録証)
一緒にお持ちいただけるとで査定額のアップが期待できるもの。
★鑑定書・・・貴重刀剣、特別貴重刀剣、甲種特別貴重刀剣、保存刀剣など。
★箱や伝来書、極め折紙、古くからあるものはそのまま一緒に。
ブランド品には「ギャランティカード」という各ブランドが品質を保証している保証書が付属しています。お使いになるなかで紛失されていることがありますが、あれば一緒にお持ちいただくことで査定額のアップが期待できます。また購入時には保存袋や外箱、ブティックの販売証などもありますので付属品として一緒にお持ちいただけると査定額にプラスされます。他にものブランドのノベルティがあれば更に査定額のアップが期待できます。
一緒にお持ちいただけるとで査定額のアップが期待できるもの。
★ギャランティカード
★保存袋や外箱
★ブランドのノベルティグッズ
有名百貨店では人間国宝や文化勲章受賞の作家、その当時に注目されていた作家や人気の高い作家の個展を行っていました。それぞれの作品には専用の木箱が用意され作品名や作家のサインが書かれています。これを「共箱」といいます。共箱は作品を運搬する際の保護にも必要ですし、作家直筆のサインもありますので価値のあるものです。 また、個展ではカタログが発行されていることが多く、もしあれば一緒にお持ちいただくことで査定額のアップが期待できます。
一緒にお持ちいただけるとで査定額のアップが期待できるもの。
★共箱、共布、解説書
★個展のカタログ
★百貨店の領収書や販売証など
オープン時に話を聞き、貴金属等も買取をしているというので査定してもらいました。
美術品・骨董品が専門と聞いていたので、貴金属の買取価格はどうなんだろうかと思っていましたが、なかなか良い金額の買取をしてくれました。
思っていたよりも買取価格がよかったので、小判も追加でお願いをしました。
従業員の方も丁寧で、ご相談させていただきやすかったです。ありがとうございました。
現川焼の花瓶と輪花鉢とコーヒーカップを査定してもらいました。
置いておいても子供達には価値が分からず処分されるかもしれないので、鑑定してもらうことにしました。
コーヒーカップは箱のない状態でしたが、鑑定士の方が品物の作家のことや相場のことを丁寧に説明してくれました。
査定結果には満足しています。
だいぶ前に買ったブランド品の腕時計を査定、買取していただきました。
正直、買取店というのはあまり得意ではなく、少し敷居が高い感じがしていました。
こちらのお店は、イオンの中にあるので妻の買い物のついでに寄らせていただきました。
お店の方は丁寧で、私の持って行った時計を扱う手つきも慣れている感じで「さすがプロだなぁ」と感心しました。
査定金額を教えてくれる時も、きちんと説明をしてくれ大変わかりやすかったです。
買取の金額も高額だったので、満足しています。
若い頃に海外で買ったシャネルのバッグを買取っていただきました。
とりあえずネットで調べ電話をかけてみたんですが、電話での対応も非常に良く丁寧で好感がもてたのでお店に行かせていただきました。
買ったのが随分昔だったので箱とかも無く、そんなに綺麗な状態では無かったのであまり期待せずに行きました。
「少しでもお金になればいいなぁ」と思っていましたが、査定の金額を聞いてビックリ。
想像以上の高値で買取っていただけ大満足でした。
買取ってくれるだけではなく、なぜその金額になったのかも丁寧に説明してくれ納得できました。
よくある質問
買取させて頂いたお品物の返品は、誠に申し訳ございませんがお受けできません。
キャンセル料金は頂いておりません、お気軽にご相談ください。
対応致します。ご連絡を頂ければ予定変更は可能ですのでお気軽にご連絡ください。
出張買取をさせて頂いたお品物はクーリングオフが適応致します。買取日から8日間以内にご連絡を頂ければ返品の対応を致します。
対応致します。お気軽にご相談ください。
対応致します。出張料金は無料ですので、お困りの際はお気軽にご相談ください。
お問い合わせ
お電話にてお問い合わせくださいますようお願い申し上げます。
営業時間:10:00~19:00
対応エリア
愛媛県松山市(まつやまし)、愛媛県宇和島市(うわじまし)、愛媛県八幡浜市(やわたはまし)、愛媛県大洲市(おおずし)、愛媛県伊予市(いよし)、愛媛県西予市(せいよし)、愛媛県東温市(とうおんし)、愛媛県上浮穴郡久万高原町(かみうけなぐんくまこうげんちょう)、愛媛県伊予郡松前町(いよぐんまさきちょう)、愛媛県伊予郡砥部町(いよぐんとべちょう)、愛媛県喜多郡内子町(きたぐんうちこちょう)、愛媛県西宇和郡伊方町(にしうわぐんいかたちょう)、愛媛県北宇和郡松野町(きたうわぐんまつのちょう)、愛媛県北宇和郡鬼北町(きたうわぐんきほくちょう)、愛媛県南宇和郡愛南町(みなみうわぐんあいなんちょう)
※出張内容によっては、ご相談させていただく場合もございます。
愛媛県は四国の北西を占めていて、東西に細い県域なのが特徴です。瀬戸内海に面しているため、対岸の広島県と海で県境を接し、しまなみ海道でつながっています。
このほか、四国内の香川県、徳島県、高知県とも陸で接しており、JR四国や高速道路で容易にアクセス可能です。
また、日本一細長い半島といわれる豊予海峡に突き出た佐田岬も抱えています。
愛媛県は四国山地、とくに石鎚山系を背後にしているため、台風などの被害が少なく、温暖で暮らしやすい気候といわれます。
県都松山を中心に広がる道後平野は早くから開けた地域で、古代の遺跡や歴史的スポットも多く、道後温泉をはじめ観光スポットも点在しています。
県内には温泉があちこち湧いていて、温泉宿や日帰り温泉の施設が豊富です。
その中心が道後温泉。映画やアニメのモデルにもなった道後温泉本館は、明治時代に建てられた100年以上の歴史がある壮麗な木造建築です。商店街は浴衣を着た宿泊客が行き交います。
また、江戸時代初期に加藤嘉明によって築城された松山城は、松山市民のシンボル。松山市の中心に位置しているため、郊外からもその姿を仰ぎ見れる名城です。幕末以前の天守閣や櫓がそのまま残されている貴重な城郭でもあります。
藩政時代、愛媛県は松山藩や今治藩を将軍家ゆかりの松平家が納め、その他の地域を伊達家の宇和島藩をはじめ外様が領有していました。
また、中世から始まった四国八十八ヶ所遍路は今でも続いていて、県内を白装束で巡礼するお遍路さんの姿を目にすることができます。
愛媛県が輩出した偉人には時宗の開祖・一遍や近代俳句を確立した正岡子規、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』で知られる日露戦争で活躍した秋山兄弟、ノーベル文学賞受賞作家の大江健三郎が知られています。
芸術面ではとくに松山藩は能楽に力を入れていてことで知られていて、松山城の麓の東雲神社には藩のお抱え能役者が使った能装束が奉納されています。
現在も松山は俳句のまちとして、また能や狂言のまちとして文化の薫りの高い都市です。
このほか、250年ほどの歴史のある砥部町の砥部焼や銅山で栄えた新居浜市、大正ロマンを代表する高畠華宵の誕生した宇和島市も県内にあります。
最近は、広島県の尾道市と愛媛県の今治市を結ぶしまなみ海道の人気が高く「しまなみブーム」でサイクリストやフォトジェニックな多島美や夕景を求める観光客が急増。
ミシュランガイド日本編では道後温泉と松山城が2つ星に選定されるなど、愛媛県は歴史や芸術文化の味わいが色濃く残る地域です。
松山市は、四国の愛媛県の中央にある松山平野を中心に発展した中核市です。2005年に市町村合併で周辺の2市町を吸収した結果、四国で初めて人口が50万を超える都市となりました。西側には温暖な瀬戸内海、東から南側には急峻な四国山地の裾野が広がっていて、海も山もある自然豊かな街です。
松山は古くから開けた地域で、古墳時代の西暦300年頃には南江戸の古照遺跡で発見されたように井堰を築造しての大規模な稲作農耕が行われていました。
ヤマトの影響下に入ったのもこの頃と考えられていて、前方後円墳である桑原の経石山古墳は、その証しの一つといえるでしょう。
また、法隆寺が建立される11年前の596年(推古4年)には聖徳太子が伊予の湯に来浴して、石碑を建立したと伝わります。「伊予の湯」とは、今なおこんこんとわき続ける道後温泉のこと。飛鳥時代には、額田王や舒明天皇、斉明天皇も入浴した記録が残されています。
松山の歴史を語る上で外せないのは、河野氏の活躍です。平安時代から風早(現在の北条)から精力を伸ばし始めた伊予の豪族で、1189年(文治5年)には河野通信が源頼朝の奥州征伐に従軍。
その後、鎌倉幕府は通信に伊予国の御家人を統率させるようになって、河野氏は全盛期を迎えます。
また、河野氏一族からは時宗の開祖・一遍も登場。四国八十八ヶ所の第51番札所・石手寺は河野氏の崇敬を集めた古刹です。
国宝の仁王門がお遍路さんや観光客を出迎えてくれます。松山市でも最大級の寺院で、線香の煙が絶えることがありません。
中世を通して隆盛を誇った河野氏でしたが、1585年(天正13年)、豊臣秀吉の四国征伐によって湯築城(現在の道後公園)で滅びました。
松山が正式にスタートしたのは、関ヶ原で功を立てた加藤嘉明が松山藩を与えられた1600年(慶長5年)のことです。
松山のシンボル・松山城は加藤嘉明によって築城されました。その後、松山藩は蒲生忠知から松平定行へと藩主が移り変わります。
松山銘菓・タルトは松山定行が長崎を訪れた際に南蛮渡来のポルトガルのタルトを知って、帰国後、改良して作らせたと伝わっています。
明治に入ると、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」に登場する俳人の正岡子規、軍人の秋山兄弟が誕生。東京で活躍するようになります。
1888年(明治21年)には日本発の軽便鉄道の伊予鉄道によって松山~三津浜間を開業。道後町の初代町長・伊佐庭如矢を中心に道後温泉本館が建設されたのは、1893年(明治26年)。100年以上、松山の観光のシンボルとして市民に愛されています。
現在の松山市は、一番町から三番町にかけて官公庁や多くの企業が集まるビジネス街があるほか、大街道から銀天街、湊町は商店街のアーケードを中心に四国最大の繁華街を形成するなど、政治・経済の盛んな街として発展。2017年には国体も開催されて、これからも住みやすく観光的な魅力も輝く都市です。
東温市は、松山市の東隣に位置している人口約3万5千人の町です。重信町と川内町が合併して2014年に誕生しました。
市内には愛媛大学の医学部キャンパスと付属病院があって、県内有数の医療の中心地として知られています。
また、隣市の県都松山市は、伊予鉄道の郊外電車とバスが運行しているためアクセスが便利です。
市の郊外には松山自動車道の川内ICもあるため、工業や輸送の集積地ともなっています。
東温市は、河野氏の本拠地として知られる高縄山を水源とする重信川が市の中央を流れる豊かな町です。松山平野の東部を占めていて稲作や麦の栽培が盛ん。また、登山やそうめん流しで人気の皿ヶ嶺や夏目漱石や正岡子規も訪れた白猪の滝といった観光名所も点在しています。
古代の東温市の遺跡には、県の史跡・川上神社古墳があります。7世紀、古墳時代の終盤のもので、立派な馬具が出土されました。
また、三島神社の本殿は県下最古の三間社流造。国の重要文化財に指定されていて、南北朝時代にまでさかのぼります。
また、医王寺の本尊である薬師如来像のための厨子は国の重要文化財。室町時代のもので、禅宗様式らしい質実剛健な佇まいが特徴です。
また、香川県の金刀比羅宮へと続く金比羅街道の一部が市内に残っています。川上旧街道には、古い街並みがあって、道標や常夜灯が大切に保存されています。
道路に沿って掘割のような小川が流れており、重厚な日本家屋が建ち並ぶ様子は、江戸時代や明治時代にタイムスリップしたかのようです。
このほか市内には、大正ロマンを代表する画家・高畠華宵の作品を集めた高畠華宵大正ロマン館、栗タルトで知られるハタダのお菓子館もあって、観光名所になっています。
また、隻手薬師(かたてやくし)は眼病の仏様として地域の振興を集める古刹です。
最近では、脚本家のジェームス三木を名誉館長に戴く坊ちゃん劇場も人気。小説「坊ちゃん」や正岡子規など、四国に関連する題材を取り上げたミュージカルを通年公演しています。
一方で、芸術関連で全国的な注目を集めたのが、岡本太郎の『明日の神話』の修復作業が東温市内で行われたことです。2005年7月から翌年6月に及んだ修復作業は無事終了。市民に先行公開されました。
自然豊かで歴史情緒あふれる町として、また松山市のベッドタウンとして発展する東温市。地元ならではの観光スポットもたくさんあって、ファミリーからお年寄りまで住みやすい町です。
伊予市は、愛媛県のほぼ中央に位置する市で、平野部から山間部にかけての旧伊予市と中山間地域の広がる旧中山町、瀬戸内海に面した旧双海町の3つの市町が合併して今の伊予市となりました。2005年のことです。県庁所在地のある松山市からは約10kmのため、早くからベッドタウン化も進んだ地域でもあります。
伊予市は、山の麓の平坦地を中心に古くから農業が営まれてきました。6世紀にさかのぼる伊予岡古墳があるように、当時既に有力な豪族が地域一帯をまとめていたと考えられています。
藩政時代、1635年(寛永12年)、伊予市の郡中地方は風早地方(松山市の旧北条市一帯)と替地。それまでの松山藩から大洲藩に組み込まれました。郡中の灘町では市場が発展して、商業がさかんになったきっかけもこの時代です。
1812年には、岡文四郎が万安港(ばんあんこう)、現在の郡中港を作り、ますます商業都市として発展しました。
廃藩置県から明治時代には、大小さまざまな村が合併を繰り返して、現在の伊予市の市域まで拡大します。
藩政期から商業都市だった基盤を生かして、1896年(明治29年)、南予鉄道(現在の伊予鉄道)は松山から郡中まで汽車を開業。
1905年(明治38年)には、乗合馬車が郡中と中山を結びます。郡中に電灯や公衆電話が設置されたのもこの頃です。
現在も伊予市の主要産業である花かつお製造は、1917年(大正6年)にスタートしました。
市内の伊予稲荷神社は、平安時代、伏見稲荷大社から勧請して創建されたといわれていて、千数百年の歴史を誇る古社です。この神社を中心に稲荷大社の荘園も置かれて、その後、河野氏が大山祇神社に寄進したことから、河野一族からも庇護されていました。
また、展望台で有名な谷上山の宝珠寺ともつなありが強く、一時は神仏習合の一大メッカとして修験者が行き交ったといわれています。
また、江戸時代には朝廷から「正一位」を賜るなど、現在も県下を代表するお稲荷様として、初詣の神社として知られています。
また、最近は、ホームから伊予灘の夕陽を眺められる下灘駅が鉄道ファンに人気です。JRの列車で駅に降り立つと目の前に瀬戸内海ののどかな光景が広がります。現在は首位の座を明け渡しましたが、「日本一海に近い駅」で人気になった駅でもあります。ノスタルジックで風光明媚な景色のため、数多くの映画やドラマのロケで使用。全国から駅から見える海を見ようと、たくさんの観光客がホームに降り立つ姿を見ることが出来ます。豊かな自然で観光でも人気の伊予市は、のどかな時間の流れるまちです。
愛媛県の県庁所在地である松山市の南隣に位置する松前町。ショッピングセンターのエミフルMASAKIや東レ株式会社の愛媛工場を誘致しています。
国道56号・伊予鉄道郡中線・JR予讃線が縦貫し、交通の便の良さから松山市のベットタウンとしても近年人気です。
重信川の川の流れが作り出した広大な平坦地は、今も田畑で利用され、農業が盛んな地域でもあります。
また、松山城の前身である松前城跡や戦国武将・後藤又兵衛の墓、松前の農業のために命をかけて働いた義農作兵衛の墓などがあります。
また、松山城築城の際には頭の上のたらいに石を載せて運んだというおたたさんの歴史も有名です。
1977年(昭和52年)、古墳時代中期、およそ1,600年前の祭祀遺跡・出作遺跡が発見されました。祭祀遺跡としては西日本を代表する規模で、祭祀遺構や竪穴式住居などの跡からたき火の跡が多数発見されています。祭祀に使われた土器や工具も同時に発見されました。これだけの規模の祭祀遺構は松前だけではなくて、道後平野全体によるまとまった祭祀が行われていた可能性が指摘されています。
奈良時代の延喜式内明神大社である伊予神社には、境内の西北部に「入らずの森」があります。1897年(明治30年)、鎌倉時代の五輪塔の周辺から青銅製経筒6点と宋時代の磁器製壷2点が発見されました。入らずの森にある石には、くぼみにたまった水がいぼに効くというおまじないが伝わっています。
平安時代に悲恋の末、伊予国に流刑になった公家の姫君・御多喜津姫(瀧姫)は船で松前の浜に漂着。住民から手厚くもてなされた瀧姫は終生、この地で住むことを決意して、魚の行商人となりました。これが松前の女性の鮮魚の行商人「おたたさん」の由来です。
松前港の一隅には、瀧姫神社と呼ばれる姫を祭った神社が大切に残されています。松前の海岸に近い場所にある松前城跡。
南北朝時代にはすでにこの地域を押さえる砦が築かれていたといわれています。
その後、安土桃山時代、加藤嘉明が6万石で松前城に入場。現在の重信川である伊予川の治水工事や松前港の大規模な拡張工事もその時代のことです。
藩政時代の庶民の英雄として語り継がれる義農作兵衛は義民の人。享保の大飢饉でも真面目に耕作を続けていましたが、飢えから田んぼで倒れてしまいます。亡くなった作兵衛の元には、翌年に蒔くための麦だね一俵が残されていて、村の人々を長引く飢饉から救いました。
1764年(安永6年)、松山藩主によって作兵衛を讃える石碑が建立されて、1881年(明治14年)には義農神社になります。
現在も、義農作兵衛の社会に対する献身的な姿勢は、松前の人々の間に語り継がれるなど、農業の盛んな松前の土台を感じるエピソードです。
砥部町は、愛媛県の県都である松山市の南側に位置していて、北部は砥部川に沿って比較的平坦な地が広がるエリア、南部は中山間地域の自然豊かなエリアに分かれています。
また、砥部町は温州みかんや伊予柑といったかんきつ類の栽培も盛んです。日当たりが良くて温暖な地域のため、古くからみかん栽培が続けられてきました。
愛媛といえばみかん栽培で有名ですが、砥部町でも戦後、急速にみかん農家が増えて、県のかんきつ農業を支えていました。
国の伝統工芸品で愛媛県無形文化財に指定されている磁器「砥部焼」の産地として全国的に知られる町です。砥部焼は250年ほどの歴史があって、現在も町内には100余りの窯元が現代的なアレンジを加えながら伝統を受け継いでいます。
藩政時代、現在は砥部町になっている旧広田村で採掘された良質な陶石を砥部まで運んで、磁器づくりがはじまりました。戦後、個人の窯元も増えて、現代生活に適した作品づくりも始まっています。とくに砥部町の北部は焼き物の里として観光化もされている人気のエリアです。
6世紀初めの大下田古墳からわかるように、砥部は古墳時代には他地域との交流が進んで発展した地域でした。
江戸時代は初期松山藩でしたが、1635年(寛永12年)の替地で大洲藩領に。砥部焼の振興が始まったのは大洲藩になってからのことです。
砥部町には、中央構造線が走っていて、その路頭が町内の砥部衝上断層で見ることができます。
また、広田地区の権現山は石鎚信仰のさかんだった霊峰で、
現在は、夏になるとそうめん流しで涼を求める観光客が訪れる場所です。
このほか、七折地区は全国的にも知られる梅の産地。毎年2月下旬から3月上旬に開催される七折梅まつりには梅の香る梅林を散策後、梅のタネ飛ばし大会や直売所で梅干しや梅を使ったお菓子を買い求める参加者で賑わいます。
戦後になると、道後から移転した「愛媛県立とべ動物園」は西日本最大級の規模でオープン。県内外から来場者が訪れています。
また、子どものための広大な公園である「えひめこどもの城」は、休日になると子供たちの遊ぶ声でいっぱいです。
さらに、愛媛県立総合運動公園は、愛媛のスポーツ競技のメッカとして、国体をはじめさまざまな試合やレクリエーションに使用されています。
J2の愛媛リーグの本拠地としても有名です。
さらに「念ずれば花ひらく」で知られる詩人の坂村真民が半生を過ごした町でもあります。
このように、砥部町は松山市のベッドタウンとして人口が増えてきた町なのです。
内子町は、愛媛県のほぼ中央部に位置しています。南予地方にあって、山に囲まれて小田川が流れる自然豊かな町です。人口は約1万5千人。和ロウソクの原料であるハゼを扱う商人の屋敷が軒を連ねていて、「白壁と木蝋のまちづくり」をキャッチフレーズに歴史的な雰囲気を保存する活動も続けてきました。
また、近年は小田地区や石畳地区など農村の美しい景色や農業生産物を生かして、農村民泊やグリーンツーリズムにも力を入れています。農業を中心とした地域活性化の取り組みは全国的にも注目されていて、新しいアプローチにも積極的な町です。
もともと藩政期は大洲藩そして支藩だった新谷藩に属していました。県都松山市からは約40km。松山から大洲、宇和島へとつながる大洲街道の交通の要衝で流通の拠点としても発展。
また、四国遍路のための遍路道が町内を通っているため、お遍路さんの巡礼者の宿泊地としても栄えました。
かつて内子町は、和紙生産と木蝋と呼ばれる和ロウソクの産業で栄えた町です。
江戸時代から明治時代には、その販路を海外にまで伸ばしていました。高品質で、全国の木蝋生産の約3割を占める時期もあったほどです。
木蝋は、神社仏閣の灯明として、また家の照明として、明治頃まで高い需要を誇りました。
しかし、大正時代に入ると照明のエネルギーが石油や電気になったため、木蝋生産は衰退しましたが、内子町の中心部には、木蝋生産が最盛期だった面影を偲ぶ商家の白壁の町並みが残っています。町並みを「八日市道路」と呼び、1982年(昭和57年)には国の重要伝統的建造物群保存地区にも選ばれました。
この八日市道路の周辺には、1916年(大正5年)に建設された芝居小屋・内子座があります。
2015年には、国の重要文化財に指定された地上2階建ての木造の施設で、昭和40年代までは歌舞伎や人形芝居、映画の興業に、それ以降は商工会館やイベントホールとして使われていました。
その後、老朽化で取り壊しも検討されていましたが、復元保存事業が立ち上がり、1985年(昭和60年)にこけら落とし。
平成に入るとユネスコ文化遺産の人形浄瑠璃の地方公演「内子座文楽」のような伝統的な芸能の開催場所としても広く利用されてるようになりました。
近年、内子町大瀬地区出身の作家・大江健三郎がノーベル文学賞を受賞して話題に。道の駅内子フレッシュパークからりには町内の新鮮な農産物が直売されるなど、内外から訪れる観光客で賑わう町です。
大洲市は、肱川の中流から下流に広がる愛媛県の南予地方の人口約4万人の町です。大洲盆地は霧が発生しやすく、肱川沿岸にそびえる大洲城を幽玄な姿に変化させます。また、瀬戸内海にそそぐ肱川河口の長浜地区も独特の地形で霧がよく出るエリア。冬の朝、大洲盆地の霧が肱川にそって河口へと吹き抜ける「肱川あらし」は全国的にも珍しい気象現象としてよくメディアで取り上げられています。
藩政時代、大洲は、6万石の大洲藩の城下町として発展しました。大洲は、肱川を使った水運や宇和島や松山、土佐へと続く街道の要衝であったことから、戦略的にも商業的にも重要な地でした。大洲の町を歩くと、今でも武家屋敷や豪商の屋敷、職人の家など、江戸時代から明治時代の面影が残っていて「伊予の小京都」と呼ばれることもあります。
とくに城下町の「おはなはん通り」はNHKの朝の連続テレビ小説『おはなはん』やフジテレビ『東京ラブストーリー』のロケ地にも使われた歴史情緒の味わえるエリアです。
大洲城は、鎌倉時代末期の1331年(元徳3年)、伊予の守護となった宇都宮氏が築城したものが最初です。
江戸時代の初期、築城の名手・藤堂高虎が修築後、伊勢の津藩に転封されると、淡路島にあった洲本藩の脇坂安治が5万3千石で入城します。これが大洲藩の始まりです。
やがて、鳥取の米子藩から加藤貞泰が6万石で入部して明治を迎えます。加藤家は、学問を奨励する家風があったため、中江藤樹など歴史に名を残す儒学者も誕生しました。また、大洲藩の3代藩主加藤泰恒が別荘として建てた「臥龍山荘」からは背後の冨士山(とみすやま)を借景に、眼下には肱川の穏やかな流れが見えるなど、洗練された日本庭園です。園内の建造物は数寄屋造りで、往時の大洲藩の雰囲気を今に伝えています。
流量を誇る肱川を利用して、毎年夏に行われる大洲の鵜飼い。岐阜県の長良川、大分県の三隅川に並んで日本三大鵜飼いのひとつです。大洲の鵜飼いは、夜、鵜匠が乗った小型の船の松明の明かりを頼りに鵜を巧みに操って魚を採る漁法。そこに客船の屋形船が併走しながら川下り、夏の風物詩として多くの観光客が川下りの涼と鵜飼いを楽しみます。
2000年(平成12年)、松山自動車道が大洲まで延伸。高速道路が市内まで届いて、アクセスがさらに便利になりました。
最近は、長浜港の沖合の青島が「猫の島」として注目。フォトジェニックな写真が撮影できると話題になって、人口15名の小さな有人島に棲む100匹以上の猫に会いに各地から多くの観光客が訪れています。盆地と海を中心に発展して魅力あふれる町、それが大洲市です。
西予市は、愛媛県の南西部に位置する県内最大の面積を持つ市です。東西に長いかたちをしていて、西側は宇和海に面している一方、東側は急峻な四国山地の一部で成り立っています。四国カルストや大野ヶ原は高知県と県境を接するなど、地形や自然のバリエーションにあふれているのも特徴です。豊かな地形の種類が味わえることから、2013年(平成25年)には日本ジオパーク『四国西予ジオパーク』に認定されました。
西予市は、2004年(平成16年)、宇和町、野村町、城川町、明浜町、三瓶町の5町が新設合併して誕生しました。中でも西予市の中心部は卯之町で、宇和島藩時代には宿場町として、その後も宇和町の中心地として栄えました。
また、特急停車駅のJR四国予讃線・卯之町駅や松山自動車道の西予宇和ICがあるなど、今なお交通の要衝でもあります。
卯之町の町並みは江戸時代から明治時代にかけての面影を残す歴史ロマンあふれる通りです。
白壁の木造屋敷が建ち並び、幕末から明治維新の偉人の足跡をたどることができます。
西予市の偉人でまず名前が挙がるのは、幕末に活躍した蘭学者で医学者の二宮敬作です。若くして長崎のシーボルトの私塾「鳴滝塾」で西洋医学を学び、その後宇和島藩に戻って卯之町で全国から集まる若者を育てます。日本初の女医でシーボルトの娘である楠本イネや蘭学者の高野長英など、その後の日本の発展に尽くす人材が二宮敬作の教えを受けにこの地で過ごしました。近くには、二宮敬作の墓や高野長英の隠れ家などが大切に保存されています。
また、卯之町の町並みのすぐ近くにある旧開明学校校舎は、1882年(明治15年)に建設された西日本でも最古レベルの学校です。国の重要文化財に指定されていて、和風の木造建築をベースにしながらも随所に洋風のアーチ型の窓枠を取り入れたり、窓ガラスにドイツ製を採用したりと、モダンな雰囲気となっています。同じ敷地内にある「申義堂」は開明学校の前身で、1869年(明治2年)に地元の人たちの力で建設された私塾です。その中心となった左氏珠山(さししゅざん)は小説「坊ちゃん」の漢文の先生のモデルにもなった教育に熱心な漢学者でした。
西予市は、かんきつ類栽培や畜産、稲作、養殖業も盛ん。とくに宇和米は県下でもよく食べられているなど、米どころでも知られています。インター近くには愛媛県立歴史民俗博物館があって観光名所に。西予市は、地域や愛媛県の歴史を知る上でもぜひ訪れたい、そんなスポットがたくさんある町です。
愛媛県の南東部ある宇和島市は人口8万人の市です。リアス式海岸の続く宇和海に面していて漁業や養殖業が非常に盛ん。ブリや真珠の養殖で全国的に知られています。
宇和島駅は、高松から松山そして宇和島を結ぶJR四国予讃線の終着駅で、そこから0系を模した「日本一遅い新幹線」で話題の予土線・鉄道ホビートレインも発着しています。
宇和島周辺は平安時代、藤原純友の乱の本拠地があった地域。941年(天慶4年)には朝廷が砦を築くなど、四国西南の海賊や豪族の治安の拠点として開けていました。
本格的に宇和島が歴史に登場するのは江戸時代に入ってのこと。1614年(慶長19年)、関ヶ原の戦いの戦功により藤堂高虎が入った宇和島城に伊達政宗の長男・伊達秀宗が10万石で入城。宇和島藩は、仙台藩伊達家の分家として明治を迎えることとなります。
宇和島城は、築城の名手と呼ばれた藤堂高虎が築城。高虎すぐに県内の今治に移ったのち、伊達家が宇和島藩を立てました。現在のような城の姿になったのは、1671年(寛文11年)、2代藩主宗利のとき。幕末以前の天守閣や武家長屋門が現存する貴重な名城です。
城下には、7代藩主宗紀(むねただ)が隠居後に暮らした庭園が大切に伝えられています。天赦園(てんしゃえん)です。大名庭園の名は、伊達政宗の漢詩が由来という伊達家ゆかりのもの。
池泉廻遊式(ちせんかいゆうしき)庭園には、太鼓橋のかたちに設計された藤棚が毎年見事な姿を見せます。宇和島市内にある和霊神社は、江戸時代初期、宇和島藩の国づくりに尽力した家老・山家清兵衛を祭った神社です。中四国地方の神社には和霊神社が摂社・末社として祭られているのをよく見かけますが、その総本社に当たります。祭神の山家清兵衛は、伊達家の内紛に巻き込まれて暗殺されました。1620年(元和6年)のことです。祟りを畏れた人々は神社を建てて手厚く崇敬するようになります。
現在は、漁業をはじめ産業の神様として信仰を集めていて、7月23日、24日開催される和霊大祭は、愛媛県下を代表するお祭りのひとつです。
現在の宇和島市は2005年(平成17年)、周辺三町の吉田町、三間町、津島町が宇和島市と対等合併してスタートしました。
2012年(平成24年)には念願だった高速道路が市内まで開通。夏になるとJRや高速道路をアクセスして、「うわじま牛鬼まつり」に多くの参加者が訪れる、歴史情緒あふれる町です。