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明治三十七八年従軍記章・・・戦前の日本の勲章

明治三十七八年従軍

明治三十七八年従軍記章(日露戦争従軍記章)

この記章は日露戦争(明治三十七年二月~明治三十八年九月)に従軍したことを表章するため、明治三十九年三月の明治三十七八年従軍記章条例、同年四月の明治三十七八年従軍記章の奏請及授与の手続準拠法、同年五月の明治三十七八年従軍記章授与調査手続によって制定されたものです。

 

1904年(明治37年2月8日)から1905年(明治38年9月5日)にかけて、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と日本海を主戦場として発生した戦争いわゆる「日露戦争」(「明治三十七八年従軍」とは「日露戦争」の別称です)がおこなわれました。 両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和しました。

デザインは銅製で表には菊花御紋章と軍旗・軍艦旗、桐葉紋章の意匠となっており、裏面は月桂樹と戦捷草、中央の楯に「明治三十七八年戦役」と入っている。

昭和六年乃至九年従軍記章・・・戦前の日本の勲章

昭和六年九年事変
昭和六年乃至九年従軍記章(満州事変従軍記章)

1931年(昭和6年)9月18日夜、奉天(瀋陽)郊外の柳条湖の南満州鉄道線路で爆薬が爆発。関東軍は、これを中国軍によるものとして軍事行動を開始し満州事変が始まりました。翌年、1932年(昭和7年)1月28日から3月3日にかけて上海共同租界周辺で日華両軍の衝突(上海事変)もありました。

 

この両事変に従軍した者に、昭和六年乃至九年事変(満洲事変・上海事変)記念の表章として、昭和9年7月23日、「昭和六年乃至九年事変従軍記章令」(勅令第225号)によって制定されました。

俗に「満洲事変従軍記章」とも呼ばれています。

 

青銅製で、菊花御紋章の下に金鵄が配され、裏側には、陸海軍の鉄帽が配され、その下に「昭和六年乃至九年事変」の文字が浮き彫りにされている。また、記念品として盾も贈られていた。

大正大禮章・・・戦前の日本の勲章

大正大礼

大正大禮章(大正大礼章)とは

この賞は1915年(大正4年)11月に挙行された即位の大礼や大嘗祭など、大礼に参列・要務に携わったことを表章するための記念章です。

 

皇室典範・登極令制定後、初めてとなった大正天皇即位の礼は、1915年(大正4年)11月10日に京都御所紫宸殿で行われました。 本来は1914年(大正3年)に挙行される予定でしたが、同年4月に昭憲皇太后の崩御により1年延期されました。 明治天皇の即位時には新調できなかった高御座等が新調されました。また、この時から高御座の隣に皇后の御座である御帳台(これは江戸時代以前の帳台と異なり、高御座に準拠して考案された新儀である)が設けられましたが、貞明皇后は親王(澄宮崇仁親王)を懐妊中であったため欠席しようです。

材質は銀で、金の菊花御紋章、左に橘、右に桜の枝と万歳幟がデザインされ、裏には「大禮記念章 大正四年十一月」と入っています。

昭和大禮章・・・戦前の日本の勲章

昭和大礼

 

昭和大禮章(昭和大礼章)とは

1928年(昭和3年)に執り行われた即位の大礼や大嘗祭など、式典の要務に携わったり参列したことを表章するための記念章。 この記念章には男性用、女性用があります。

 

1928年11月6日、昭和天皇は即位の礼を執り行う為、宮城を出発し京都御所へ向かいました。京都へ向かう天皇の行列は2名の陸軍大尉を先頭に賢所の神鏡を奉安した御羽車、昭和天皇の乗る6頭立て馬車・皇后の乗る4頭立て馬車・皇族代表・内大臣(牧野伸顕)・内閣総理大臣(田中義一)の馬車と続き、全長600メートルにも及ぶこの行列は、1分間に進む速度が86メートルと決められていたそうです。 11月10日、即位の礼当日の参列者は勲一等以上の者665名、外国使節92名ほか、2,000名以上の参列者があり、式典では内閣総理大臣・田中義一が万歳三唱しました。天皇陛下は紫宸殿の儀を終えた後、11月21日に伊勢神宮を親拝し、即位の大礼に係る一連の儀式を終えた旨、奉告し帰京しました。 帰京後は宮中晩餐会、夜会などの祝宴の他、観兵式・観艦式等が執り行われました。
素材は銀で、表には高御座に金の菊花御紋章、「萬歳」の文字が入り、円周縁に桜橘文様、裏は菊花様の縁、中央に旗形、その中に「大禮記念章 昭和三年十一月」と入っています。

支那事変従軍記章・・・戦前の日本勲章

支那事変

支那事変従軍記章とは

昭和14年7月27日、「支那事変従軍記章令」(勅令第496号)によって制定されたものです。軍功の如何や階級に関係なく、また軍人及び軍属に限らず要件を満たせば文民や民間人にも広く授与された勲章です。 おそらく日本国内で最多授与の勲章だと思います。

 

1937年(昭和12年)から始まった日本と中華民国の間で行われた長期間かつ大規模な戦闘で、「支那事変」という呼称は、当時の日本政府が定めた公称です。 現在では太平洋戦争(大東亜戦争)勃発後も含めて日中戦争とも呼ばれています。
この勲章は日中戦争に従軍した者へ授与され、青銅製で菊花御紋章の下に金鵄と陸海軍旗が配され、裏側には大陸の山河と「支那事変」の文字が浮き彫りにされています。 デザインは日名子実三で、氏は現在の日本サッカー協会シンボルマークで使われている八咫烏(やたがらす)をデザインしたことでも知られています。

戦捷記章・・・戦前の日本の勲章

戦傷記章

戦捷記章とは

大正3年8月23日~大正9年1月9日の間に、戦役に関係する軍務に従事し、顕著な功績を挙げた戦闘員に授与されたものです。従軍記章ではなく記念章です。

 

戦捷記章は連合国勝利記念の国際表章として、大正9年9月の戦捷記章令によって制定されました。 表には武甍槌神像(タカミカヅチシンゾウ)を表し、裏は桜花と地球の図と日本、合衆国、連合王国、フランス、イタリアの各国旗の図、および「文明擁護之大戦 同盟及聯合國 自大正三年 至大正九年」と入ります。 この記章の特徴は、第一次世界大戦に参加した全ての連合国が、同じ模様の綬を使用している。そのため、記章自体の意匠は各国によって異なり、綬を見れば「戦捷記章」であることがわかるようになっていことです。

満州国皇帝訪日記念章・・・戦前の日本の勲章

満州国皇帝陛下

満州国皇帝訪日記念章とは

康徳2年(1935年)満洲国皇帝(愛新覚羅溥儀)が訪日した際、関係者に授与された勲章です。

 

昭和天皇の招待による日本公式訪問で、昭和天皇自らが東京駅まで溥儀を迎えに行ったとも言われほどの歓迎ムードの中、東京駅前は大きな奉祝門もつくられました。 満洲国皇帝(愛新覚羅溥儀)は、康徳2年(昭和10年)4月6日から25日の間、日本に滞在しました。 その際の御召艦は「戦艦比叡」、航路は大連⇒横浜、帰りは横浜⇒大連でした。 「御召艦」とは皇族、天皇が座乗する艦で、地方へ出かける際の移動など皇室行事に活用されていた軍艦です。 この御召艦は大正末期から昭和初期にかけて比叡がこれを多く勤めていました。
製造は大日本帝國造幣局製です。

国境事変従軍記章(ノモンハン事変従軍記章)・・・戦前の日本の勲章

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国境事変従軍記章(ノモンハン事変従軍記章)とは

1939年(昭和14年)5月から9月にかけて、ソビエト連邦との対立のなかで、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争に従軍した者に授与されました。 公式には満州国が制定発行した従軍記章ですが、大半の授与者は日本軍人でした。

 

この事変の発端は水飲み場をめぐって双方の遊牧民が小競り合いしていたのが満州国とモンゴルの警備隊同士の衝突に、その後お互いの後ろ盾である日本とソビエト連邦が絡んで事態はエスカレート。砂漠と草原と川以外何もない大平原で戦車、航空機、重砲を投入した大戦争になってしまいました。1930年代に日本(大日本帝国)とソビエト連邦間で断続的に発生した日ソ国境紛争(満蒙国境紛争)の一つで、一連の日ソ国境紛争のなかでも最大規模の軍事衝突となりました。

紀元二千六百年祝典記念章・・・戦前の日本の勲章

紀元二千六百年

紀元二千六百年祝典記念章とは

昭和15年11月10日、内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催され、11月14日まで関連行事が各地で執り行われ国民全体が祝賀ムードにあったそうです。 式典に参列した者、祝典の事務、要務に携わった者にこの勲章が授与されました。

 

1940年(昭和15年)が神武天皇の即位から2600年目に当たるとされたことから、日本政府は1935年(昭和10年)に「紀元二千六百年祝典準備委員会」を発足させ、橿原神宮や陵墓の整備などの記念行事を計画、推進しました。 1937年(昭和12年)には官民一体の恩賜財団紀元二千六百年奉祝会(総裁・秩父宮雍仁親王、副総裁・近衛文麿、会長・徳川家達)を創設。 「神国日本」の国体観念を徹底させようという動きが時節により強められ、行われる行事は押し並べて神道色の強いものでした。 神祇院が設置され、橿原神宮の整備には全国の修学旅行生を含め121万人が勤労奉仕し、外地の神社である北京神社、南洋神社(パラオ)、建国神廟(満州国)などの海外神社もこの年に建立され、神道の海外進出が促進されていきました。
しかし、長引く戦争による物資不足を反映して、参加者への接待も簡素化され、また行事終了後に一斉に貼られた大政翼賛会のポスター「祝ひ終つた さあ働かう!」の標語の如く、これを境に再び引き締めに転じ、その後戦時下の国民生活はますます厳しさを増していくことになりました。

韓国併合記念章・・・戦前の日本の勲章

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韓国併合記念章とは

韓国併合の事業に直接携わり、韓国併合の事業に伴う要務に携わった者。また、朝鮮に在勤していた官吏、及び官吏待遇者、併合前に日韓関係に功績のあった者に贈られました。

 

この「韓国併合」は、日本が一方的に武力で制圧し占領したことで実現したものではなく、当時の大韓帝国が日本の統治下に入ることを選択し、条約を締結することで実現しました。しかし、ロシアの脅威を最も強く感じていた日本にとって、ロシアの勢力に朝鮮半島まで南下されてしまうとということは、北海道のすぐ北のサハリンと九州のすぐ北の朝鮮半島とで挟み撃ちの形となり、日本への侵略も時間の問題ということになってしまうため、朝鮮半島はなんとしても死守しなければならないという状況もあったため、実質的には日本が韓国を領有して植民地としました。日露戦争中の第一次日韓協約、次いで第二次日韓協約で外交権を掌握し総督府を設置。 1910年、併合条約を締結して植民地とました。

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